嘉永2年(1849年)12月27日、土佐藩士・豊永耕畆の子として、土佐郡細工町(現・高知県高知市はりまや町)に生まれる。兄に豊永伊佐馬(高道)があり、伊佐馬は文久3年(1863年)7月4日、河内国四條畷にて新選組に斬られている。
通称を貞五郎と称したのち貫一郎と改め、中岡慎太郎の陸援隊に加わり、土佐勤王派の一員として行動した記録がある。
慶応4年(1868年)4月、東山道先鋒軍の軍監として上野国権田村に派遣され、幕臣小栗忠順の動向を監視した。
3藩(高崎・安中・吉井)は現地検分の結果「小栗に叛意なし」と報告したが、豊永はこれを容れず、同じ軍監の原保太郎とともに「小栗がいかに恭順を示しても許さぬ。斬らねば三藩も同罪である」と恫喝し、強引に斬首を決行させたと伝えられる。
閏4月6日、小栗は家臣3名とともに水沼河原で処刑された。
明治維新後、通称を改めて諱の「高義」を名乗り、豊永高義として活動した。
明治5年(1872年)8月3日、24歳の時に政府へ『区々へ小学校を建立するの議』という建言書を提出している。
この建言は、全国の区ごとに小学校を設立し、四民平等に教育を施すべきだと主張するもので、「万民の智才を研ぎ、智識を広め、皇国をして盛大富強ならしむには、下民に至るまで事理を解せしめ、人智を開くにしかず」と説いたものであった。
明治7年(1874年)には『勤王殉国事蹟』に兄・伊佐馬と自身の略伝を寄稿。
その後は長く消息が不明であるが、明治27年(1894年)に山梨県北都留郡長を辞職した記録が残る。
明治29年(1896年)、台湾へ赴任し、台南地方法院検察官兼台南県警部長となる。しかし病状悪化のため明治31年(1898年)4月に非職となり、同年9月27日に依願退職している。