豊田芙雄
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水戸藩郡奉行・桑原信毅(桑原治兵衛)の次女として、常陸国水戸城下藤坂町(現・茨城県水戸市五軒町)に出生[1][2]。母は藤田東湖の妹の雪子[5]。幼少時から学問を好み、薙刀術穴沢流の伝授も受けた。文久2年(1862年)、豊田天功の子・小太郎(豊田香窓)と結婚した[4]。しかし、慶応2年(1866年)に香窓は暗殺され、生涯、再婚をすることもなかった。そのため芙雄には子ができず、天功の孫の伴を養子とした[4]。
明治3年(1870年)、近所の子どもたちを集めて塾を開き、和歌や漢学を教える[2]。さらに明治6年(1873年)に発桜女学校(現・水戸市立五軒小学校)ができると同校の教師となった[2]。
明治8年(1875年)に新設された東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)校長の中村正直に招かれて上京し読書教員となり[4][2]、翌明治9年(1876年)に四等訓導兼副舎監となった。同年10月、同附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)が開設されるとその保母に任命され、日本の保母第1号(官立幼稚園の保母第1号)となった[3][4]。同園には松野クララがおり、松野からドイツの幼稚園について学んだ[1]。明治12年(1879年)、県令・岩村通俊の招きで鹿児島県に渡り、県立幼稚園の創設に尽力した[1]。鹿児島では西郷隆盛が尊敬した藤田東湖の姪として歓迎され、「女神様」と呼ばれた[5]。
明治20年(1887年)からの3年間、イタリア全権大使の徳川篤敬侯爵夫妻に随行してローマに渡り、文部省から依託されてヨーロッパ各地の女子教育を調査した[4][2]。帰国後、明治27年(1894年)に寄宿制の翠芳学舎を開くも1年で閉校し、明治28年(1895年)に栃木県高等女学校(現・栃木県立宇都宮女子高等学校)で女子教育に従事し[5]、明治34年(1901年)、前年に新設された水戸高等女学校(現在の茨城県立水戸第二高等学校)に着任、明治36年(1903年)からは水戸女子師範学校(現・茨城大学教育学部)の教諭を兼任して国語漢文科の教員免状を受けた[4]。大正11年(1922年)に水戸高等女学校を退職[4]すると、私立好文女学校講師や大成女学校(現在の大成女子高等学校)校長などを務めた。「女が女の特性を発揮させ、良妻賢母になるために高等教育が必要」であると説いて、日本の女子高等教育の開拓・発展に大きく貢献した[3]。
年譜
著書
- 『女子家庭訓』(編著)
