貴島国彦
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概要
天保14年(1843年)、薩摩国鹿児島郡鹿児島城下新屋敷通町(現鹿児島県鹿児島市新屋敷町)に生まれる。初名は清、通称は宇太郎。気質は剛毅で、戊辰戦争に際しては藩兵として従軍し、戦功を挙げたとされる[1]。
維新後は新政府陸軍に出仕し、明治4年(1871年)3月、岡沢精・平野正介・乃木希典らとともに陸軍少佐に任ぜられ、正七位に叙された。同年8月には鹿児島分営長に補され、明治6年(1873年)には従六位となった[2]。しかし明治8年(1875年)5月28日、官職を辞して位記を返上し、帰郷している[2]。
明治10年(1877年)に西南戦争が勃発すると、桐野利秋に誘われ参軍、または当初は私学校党と距離を置き従軍しなかったが、熊本開戦後、大山綱良鹿児島県令と協議のうえ壮丁を募って一隊を編成し出陣したと伝わる。薩軍振武隊の監軍となった[1]。可愛嶽突出の際には中軍を指揮し、全軍解散後も西郷隆盛に従って鹿児島へ入った。
同年9月4日夜から5日にかけての城山戦において、米倉方面への攻撃を指揮し、歩兵第5連隊の激しい銃撃を受けて戦死した。享年35[2][3]。墓所は鹿児島市の南洲墓地にある。 妻は叶子。養子に陸軍中尉となった貴島国清がいる[4]。