各県の貴族は、貴族団(ロシア語版)を形成することになっていた。貴族団は、選挙で選ばれた貴族団長を長として、貴族集会(ロシア語版)によって運営された[4]。
各郡(ウエズド)にも、郡の貴族団長が存在した。郡の貴族団長は、県の貴族集会における郡部会よって3年の任期で選出され、県知事の承認が必要であった。この役職は無給であった。郡の貴族団長は、郡ゼムストヴォ会議(1864年以降)、郡教育委員会、郡軍事徴兵委員会、郡会[5]、その他多数の地方組織の議長も務めた。郡の貴族団長は、貴族階級としての自身の職務を果たすことに加え、国家的な活動にも積極的に関与した。
ロシア帝国の法律では、郡レベルでの統一的な行政は規定していなかったが、郡の貴族団長は郡のあらゆる機関を率いていたため、事実上の郡の長として機能した。
各県(グベールニヤ)の貴族団長は、貴族集会によって選出され、皇帝によって承認された。県の貴族団長は、県ゼムストヴォ会議(1864年以降)を主宰した。県の貴族団長は、地方貴族の統治および地方行政(治安判事、教育、軍事徴兵などの評議会)と地方事業の資金調達を担当した。
貴族団長は、帝国議会(ドゥーマ)選挙のための多数の選挙集会や会議の議長も務めた。
県の貴族団長の役職は、名誉職かつ無給であり、伝統的に地方貴族に属する地主が務め、常勤職ではなかった。法律により、県の貴族団長は誰の許可も必要なく最長4か月の休暇を取ることができた。ただし、知事に連絡方法を知らせる義務があった。郡の貴族団長とは異なり、県の貴族団長が主宰する会議は少なく、地方行政の主要事項については主要委員会で1票しか投票権を持っていなかった。このため、県の貴族団長の地位は、より専門的で地域に根ざした役職である郡の貴族団長に比べ、名ばかりの名誉職であった。
県の貴族団長は、秘書1名と事務職員2名からなる、小規模な常設事務所を有した[note 1]。