賀川肇 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 江戸時代末期(幕末)生誕 不詳死没 文久3年1月28日(1863年3月17日)別名 一馬 凡例賀川 肇時代 江戸時代末期(幕末)生誕 不詳死没 文久3年1月28日(1863年3月17日)別名 一馬主君 千種有文テンプレートを表示 賀川 肇(かがわ はじめ)は、幕末の千種家家臣。 千種有文に仕え、千種家雑掌を務めた。京都所司代酒井忠義の家臣三浦七兵衛と親交があり、和宮降嫁に協力して有文との間を取り持った。これらのことが尊攘派に恨まれ、文久3年(1863年)1月28日、伊舟城源一郎らに自邸を襲撃され、殺害された。その3日後、遺体のうち首級は将軍後見職として上洛していた徳川慶喜の宿舎東本願寺に[注釈 1]、腕は千種邸と岩倉具視邸へと送られ[注釈 2]、公武合体派への脅迫に利用された[1][3]。 脚注 [脚注の使い方] 注釈 ↑ 安政6年(1859年)攘夷の勅諚を下した孝明天皇の意を軽んじる幕府を姿勢を断じ、勅を奉じる意思があるならば速やかに攘夷期日を決定するように迫るものだった[1]。 ↑ 和宮降嫁に関与した久我建通・岩倉具視・千種有文・富小路敬直と今城重子・堀河紀子は、尊攘派公家から「四奸二嬪」と呼ばれ憎まれていた。そのため文久2年(1862年)彼らはいずれも蟄居させられていたが、当時二女官が復職するという風聞があったため、その運動の停止を求めるものだった[2]。 出典 1 2 渋沢 1968, pp. 154–155. ↑ 山川 1965, p. 69. ↑ 山川 1965, pp. 47–48. 参考文献 上田正昭; 西澤潤一; 平山郁夫 ほか 編「賀川肇」『日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 9784062108003。 朝日新聞社 編「賀川肇」『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、2001年。ISBN 4023400521。 渋沢栄一『徳川慶喜公伝』 2巻、平凡社〈東洋文庫〉、1968年。 山川浩 著、金子光晴 訳『京都守護職始末』 1巻、平凡社〈東洋文庫〉、1965年。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。表示編集 Related Articles