賀茂保憲女
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父は平安中期に陰陽師として活躍した賀茂保憲。母は不詳。兄に暦博士の光栄、弟に権天文博士の光国と豊前守の光輔がいた[1]。生年に関しては諸説あるが、岡一男による953年説が定説として扱われている[注釈 1][3]。父と三人の兄弟といった男性に囲まれた家庭環境の中育ち、兄弟と同じく漢籍を多く読んでいたとされている[3]。
保憲女には縁妙という一人娘がおり、関白の藤原教通に仕えていた[1]。その後出家して尼となり、各地で唱導を行い80余歳で死去したとされる[4]。関白奉仕時には「監の君」という名前を用いており、由来には諸説ある。しかし、治暦2年(1066年)に書かれた大宰府の「観世音寺結縁願文」内に署名者として「尼縁妙」の名前が見えることから、父が大宰府大監または少監だったという推測がされている[5]。保憲女の結婚及び子女については、全般的に明らかな資料や和歌が少なく、正式な結婚であったかも含めて疑問が多い[6]。
正暦4年(993年)または長徳4年(998年)ごろの疱瘡流行期に、保憲女自身も40歳前後で重く疱瘡に罹患した[7]。それが契機となって私家集の『賀茂保憲女集』を編纂し、病床に臥しながらも和歌の詠作をした[8]。その後病状が悪化し亡くなったとされる。没年不詳。
勅撰集では、『拾遺和歌集』、『新古今和歌集』にそれぞれ一首収められたが、いずれもよみ人しらずとされており、平安時代では無名の歌人であった[9][10]。藤原定家は『賀茂保憲女集』を書写しているが、「歌には一首も取るべきものなし」と記した[10]。しかし。そこからかなり後世にあたる『風雅和歌集』に二首、『新続古今和歌集』には「賀茂保憲女」の名で一首収められた[11]。