賈馥

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賈 馥(か ふく、生年不詳 - 931年)は、五代十国時代官僚

成徳軍節度使の王鎔の下で成徳軍節度判官をつとめた。鎮州冀州の属県の県令を歴任し、統治に有能なことで知られた。その性格は恬淡として人と競うことなく、鎮州の士人の中でも優秀とみなされた。その家には書3000巻を蒐集し、手ずから校勘した。天祐18年(921年)、張文礼が王鎔を殺害すると、賈馥は魏州に派遣され、晋王李存勗に帝位につくよう勧進をおこなった。そのまま魏州にとどまり、駅舎に隠居した。同光元年(923年)、後唐の荘宗(李存勗)が即位すると、賈馥は鴻臚寺少卿に任じられた。のちに鴻臚寺卿として致仕した。鎮州にもどり、茅を結んで別荘とし、子孫に農耕や牧畜の仕事をさせた[1]長興2年(931年)2月13日、死去した[2]

脚注

伝記資料

参考文献

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