赤バッチ事件

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赤バッチ事件(あかバッチじけん)とは1920年(大正9年)1月5日から1921年3月27日にかけて、高知県で発生した前科者による5件の貰い子殺人の1つである。

事件の発覚

中内 丑太郎
個人情報
別名
  • 赤バッチの爺
  • 赤バッチの丑
  • 六方丑[1]
生誕 1861年頃
江戸幕府
死没 1922年4月19日
殺人
犠牲者数 7 - 9人[注釈 1]
犯行期間 1884年–1921年3月27日
大日本帝国
都道府県 愛知県高知県
動機 養育費のだまし取り
逮捕日 1921年4月頃
司法上処分
刑罰
  • 無罪(1884年)
  • 懲役6 - 7年(1885年)
  • 無期懲役(1885年)
  • 死刑(1921年)
有罪判決
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1921年(大正10年)4月4日、土佐郡潮江村(現・高知市)の高見山[注釈 2]へ薪拾いに出かけたところ共同墓地にて2人の乳児がまるで人を招くかのように手だけを地上に出して埋まっているとの通報が、高知警察署に入った[3][4]。高知署の巡査・松村松蔵と同僚の刑事は現場へ急行したところ大小2つ遺体が茶碗とともに埋められているのが見つかった[3][4]。遺体はいずれも男児であり1つは首を細紐で絞殺されており、もう1つは骨が砕けるほどの力で締められていた。被害者はいずれ生後数か月程度であることから実子ではなく貰い子と断定された[4][3]

捜査

その後高知署は捜査を開始した。捜査をしていると6人の子供を持ちながらも貰い子をしている60歳位の坊主頭で頭の上が白髪である小柄な老人が浮上した[3]。同年1月に生後20日くらいの男児をこの老人に預けたとの手がかりも見つかったが名前までの詳細は掴めずにいた[3]。また手がかりを探しているうちに堀内そよという女性がその老人から子供を預かって世話したとの手がかりが手に入り、そよ方を訪問しそよから話を聞いたところその老人から男児の世話を依頼されて1か月も経たないうちにその老人が連れて帰ったと話した[3]。そよから話を聞いたところでその老人は常に赤いバッチを履いていると分かり、通称・赤バッチの爺または赤バッチの丑こと中内丑太郎と判明[3][4]。松村は直ちに署長に報告し、前科簿をめくったところ「殴打致死輕懲役七年、故殺無期徒刑(後恩赦減刑)窃盗二外一犯の兇状持中内丑太郎」と書かれたページが見つかった[3]。その後そよに殺害された乳児の着物を見せたところそよの娘・玉子(15歳)が縫った着物と判明、玉子にもその着物を見せたところ自分が縫った着物に間違いないと話した、その後松村巡査は犯人を丑太郎と断定し、容疑者逮捕へと向かい、捜査網が張られた[3]

逮捕・裁判・死刑

松村は丑太郎が東郷藤太郎方にて飲酒をしているとの情報を掴み、酒宴が始まっているところを音に紛れて障子を覗いたところ60歳ぐらいの老人、坊主頭の特徴を持つ赤いバッチを履いた丑太郎が胡座をかいて座っており、丑太郎を呼び出して高知署に連行した[3]。取調べにて証拠を突きつけられた丑太郎は貰い子殺し2件を自白し、生活費と自分の最も好きな酒代を理由に5件の貰い子殺しをしたと供述した[4][3]。丑太郎は2人の乳児について大きい乳児は太田という人物から養育費50円付きで受け取り、1920年12月31日に絞殺し、小さい乳児は1921年3月27日に養育費80円付きで受け取り、その翌日に絞殺し炭俵に入れて押し入れに遺棄したが、息を吹き返したため再び首を絞め、翌晩にも息を吹き返したため再び首を絞めたと自白、またその日から続けざまに乳児の鳴き声が聞こえると言うので精神的に追い込まれた事で墓地へ埋没したと供述した[3]。また丑太郎は2人以外にも他に3人の貰い子を受け取っており、そのうち1920年1月5日に岡村初尾から60円の養育費とともに受け取った女児と1920年3月19日に西村八重から50円の養育費とともに受け取った子供、1920年11月18日に今井芳子から受け取った女児の3人の子供の行方が分かっておらず、後に遺体で発見された。

また松村松蔵は法廷にて丑太郎に以下の言葉を残している。

こりゃ丑太郎、お前も名代の赤バッチではないか、初めて住生際を清くせよ。世間は広いしかしもはやお前に同情してくれる人間は1人もあるまい、だがたとえにもある通りその罪を憎んでその人を憎まずだ、初めてお前が善心に立ち返って一切を後悔すれば、神は必ずお前の罪を許してくれるだろう。またお前も深く良心に顧みる慮がなければならない、丑太郎!悪に強い者は善にも強いとやら...お前の身内にも人並の涙はあろう、五骸には赤い血も流れている...よく真人間になって立ち返ってみよ。そしてお前の手にかけた子供が、お前の子であり、孫であったときは、どんな気がするか...とくと考えてみよ、その世の中に出たばかりで、お前の酒の代となる為、暗から暗へ葬られた、哀れな子供になってみろ...初めてお前がその罪を、法の前にして悔悟してこそその魂は浮かべ。そのままお前が白状もせずに頑張り通せば、死んだ子供の魂は永遠に浮かぶ瀬もあるまい...丑太郎よ、どうか善心に立ち返ってくれ...そしてお前の手にかけた子供の菩提のためにも是非全てを悔悟してくれ...そして心丈きでも真人間に立ち返って、清く法の裁きを受けてくれろ...それが俺のお前に残すただ1つの餞別だ...[5]
松村松蔵

この松村松蔵の発言を聞いた丑太郎は涙を流して罪状を自白した[3]。丑太郎に死刑判決が言い渡され、控訴したが二審で棄却され、1921年11月9日に死刑が確定した[3][2]。1922年4月19日に死刑執行(61歳没?)[2]

丑太郎の生い立ち・前科

丑太郎は若い頃、優れた強健な体を持っていたため大阪相撲の稲川音右衛門に弟子入りした。1884年(明治17年)23歳の時に愛知県にて稲山彦兵衛らと賭博をめぐって喧嘩となり稲山とその他1人を日本刀で殺害し、もう1人の片腕を切り落としたが、正当防衛により無罪となった[4][3]。翌1885年(明治18年)にも賭博からのトラブルにより岡田貞喜を殺害しているが殺人に問われず、傷害致死により懲役6年(7年とも[3])の判決が言い渡されている[4]

その後服役中には司法巡査・中島貞馬(22歳)の監視を受けている時に隙を見つけて帯剣を奪って首を切り落として殺害した[6]。逃走後に別の目的で殺人を試みようとしたが目的を果たせず、警察の追跡にあった為持っていた帯剣で切腹をしたが未遂に終わった。中島貞馬殺害の件では無期徒刑の判決が言い渡されたが、恩赦によって出所した[4][3][7]

世間の反応

脚注

関連項目

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