岩手県西磐井郡涌津村(現・一関市)生まれ[2]。旧制盛岡中学校から弘前高等学校を経て東大文学部哲学科卒業。京大法学部中退。満洲国文教部社会教育課や満映製作課を経て、戦後に帰国。東横映画九州支社に合流し、1951年の東映発足で東京本社へ転じた後、教育映画自主製作配給委員会事務局長や教育映画部企画製作課長として、満州時代にも関与していた農村部への巡回映写事業や『白蛇伝』などの教育映画、アニメーション映画製作を行った[3]。1961年、テレビ朝日に東映が出資した経緯から朝日テレビニュース社に移り、1965年頃に退社した。
満州時代は満映理事長だった甘粕正彦の側近であり、内田吐夢とともに死の瞬間を看取っている。息子は作家の赤川次郎。