赤座直則は美濃国の出身で、名を政景または直矩といい、通称を七郎左衛門(七郎右衛門)と称した。はじめは足利義昭に仕えて近江国本國寺に逗留した際、三好・松永勢の急襲を受けて奮戦し、義昭近習の「七本槍」の一人に数えられたという。
一方でその出自については、『赤座文書』において、越前清水谷に住した赤座弥助が美濃へ移住し、のち斎藤道三に属して七郎右衛門政景と名乗り、さらに岩倉城の織田氏へ婿入りして織田信長・信忠に仕えたとも伝わる。
永禄12年(1569年)の六条合戦では直則および舎弟の赤座助六郎は義昭方として三好三人衆や斎藤龍興と対峙し、その後も織田家の家臣として行動したと考えられる。
天正10年(1582年)、本能寺の変が勃発すると赤座直則は京都二条御所において主君織田信忠とともに戦い戦死した。享年56とされ、法名は「妙覚院白翁大居士」。
生前、直則は越前に一万石を領し、西市場(現・岐阜県各務原市)に居住したと伝わる。嫡男赤座政宣(又左衛門)は明暦年間に死去し、その弟赤座正規・直之は大坂の陣で討死した。
赤座直保らとは同族と推測されるが詳しい関係性は不明である