文政13年(1830年)4月4日、赤松氏の家督を継ぎ寄合となった。範忠は赤松氏満から数えて10代目にあたり、家禄は3015石で、屋敷は外桜田に置かれ、知行地は上総国周淮郡および上野国邑楽郡にあった。家紋は五七の桐であった。
天保8年(1837年)8月6日、中奥小姓に任じられ、高3015石を領した。翌天保9年(1839年)12月16日には諸大夫に列し、播磨守を称した。嘉永7年(1854年)10月14日、小姓組番頭(七番組)に昇進し、安政5年(1858年)8月2日には書院番頭(八番組)に転じた。
安政6年(1859年)8月28日、外国奉行兼神奈川奉行に任命され、席次は従前のままとされた。同年7月27日、横浜の商人・中居屋重兵衛が銅を用いて屋根を葺いた件について、神奈川奉行として取り調べを行った。この際、銅が長崎貿易における主要輸出品であり、国内産出が減少していた事情を踏まえつつ、重兵衛の「日本の名誉を示すためであった」との弁明に感心したと伝えられている。
万延元年(1860年)7月23日、外国奉行・神奈川奉行を辞して寄合となったが、同年10月22日には再び書院番頭(二番組)に任じられた。文久3年(1862年)1月20日、講武所奉行に任じられ、慶応元年(1865年)4月14日には側衆となった。同年閏5月16日には進発御供を命じられている。
慶応2年(1866年)11月17日、側衆御用取次となり、慶応4年(1868年)3月、御役御免のうえ隠居し寄合となった。範忠の子・範静は軍艦奉行を務めた。