走井盛秀 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代生誕 永正11年(1514年)死没 不明官位 備前守 凡例走井 盛秀時代 戦国時代生誕 永正11年(1514年)死没 不明官位 備前守主君 遊佐順盛→遊佐長教→遊佐太藤氏族 走井氏父母 走井康秀?妻 於徳丸[1]子 男子、男子、慶秀?テンプレートを表示 走井 盛秀(はしりい もりひで)は、戦国時代の武将。官途は備前守。 走井氏は河内国茨田郡走井荘の国人で、畠山氏の家臣で河内国の守護代を務めた遊佐氏の被官(内衆)であった家。「観心寺文書」には、永正年間(1504年〜1521年)に走井康秀の名前が見える[2]。 天文20年(1551年)5月には河内守護代・遊佐長教が暗殺され、河内国支配の主導権を巡り、萱振氏(萱振賢継)、鷹山氏(鷹山弘頼)、野尻氏、中小路氏、田川氏、吉益氏が粛清されているが[3][4]、これは盛秀と安見宗房、丹下盛知が協力して行ったものであった[2]。3人は遊佐太藤を長教の後継者として擁立した。なお、安見宗房が河内守護代となったとする俗説があるが、これは史料的に証明されておらず、実際の家格は盛秀・盛知と同格かそれ以下であった[2]。また、同時期に子供2人が死去したという[1]。 その後も安見宗房と協力して、河内国高屋城を拠点として河内国を三好長慶と争った[2]。 脚注 [脚注の使い方] 注釈 出典 1 2 『兼右卿記』天文20年10月14日条 1 2 3 4 弓倉弘年「中世後期畿内近国守護の研究」 ↑ 『言継卿記』天文21年2月21日条 ↑ 「良尊一筆書写大般若経奥書集」 関連項目 畠山氏 Related Articles