越田覚造
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富山県出身。越田覚二の長男として生まれる。1930年(昭和5年)東京商科大学を卒業後、昭和肥料に入社[1]。1945年(昭和20年)日本肥料四日市工場総務部長となり、1948年(昭和23年)東海硫安工業取締役四日市工場長に就任[1]。
1951年(昭和26年)本社営業部長に転じ、1958年(昭和33年)7月監査員を兼任し、1962年(昭和37年)10月日本端子社長、1963年(昭和38年)6月ラジオ関東副社長に選任される[1]。
なお1955年(昭和30年)欧米・カナダ・南米を視察し、1963年(昭和38年)8月欧米肥料事情調査のため欧州・南北米・カナダに1964年(昭和39年)欧米に出張した[1]。
1972年(昭和47年)1月、笹川平和財団名誉会長の笹川陽平(当時は笹川商事社長)とともに会社更生法を受けた富士観光(現・富士レックス)の管財人を務めた[2][3]。のち笹川は会長、越田は社長に就任した[4]。