趙国珍

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趙 国珍(ちょう こくちん、生年不詳 - 768年)は、唐代牂州の西趙蛮の首長の趙磨の末裔[1][2]

天宝年間、南詔閣羅鳳が叛き、唐の宰相の楊国忠が剣南節度使を兼ねると、唐軍はたびたび敗戦した。国珍には武略があり、南方の地形を熟知しているとして、中書舎人の張漸に推薦され、楊国忠の上奏により黔中都督となり、五渓経略使を兼ねた。国珍が五渓にあること十数年、中原安史の乱で混乱していたが、黔中は国境を封鎖して安全であった。宝応元年(762年)、代宗が即位すると、国珍は長安に召し出され、工部尚書に任じられた。大暦3年(768年)9月、病没した。太子太傅の位を追贈された[3][2]

脚注

伝記資料

参考文献

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