趙国珍 From Wikipedia, the free encyclopedia 趙 国珍(ちょう こくちん、生年不詳 - 768年)は、唐代の牂州の西趙蛮の首長の趙磨の末裔[1][2]。 天宝年間、南詔の閣羅鳳が叛き、唐の宰相の楊国忠が剣南節度使を兼ねると、唐軍はたびたび敗戦した。国珍には武略があり、南方の地形を熟知しているとして、中書舎人の張漸に推薦され、楊国忠の上奏により黔中都督となり、五渓経略使を兼ねた。国珍が五渓にあること十数年、中原は安史の乱で混乱していたが、黔中は国境を封鎖して安全であった。宝応元年(762年)、代宗が即位すると、国珍は長安に召し出され、工部尚書に任じられた。大暦3年(768年)9月、病没した。太子太傅の位を追贈された[3][2]。 脚注 ↑ 旧唐書 1975, p. 3374. 1 2 新唐書 1975, p. 6319. ↑ 旧唐書 1975, pp. 3374–3375. 伝記資料 『旧唐書』巻115 列伝第65 参考文献 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。 『新唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00320-6。 Related Articles