建安5年(200年)、益州牧劉璋の失政に乗じて中郎将趙イが三蜀(蜀郡・広漢郡・犍為郡)の豪族を誘い反逆する。盛道は反乱に呼応して地元で兵衆をあつめるが鎮圧され、妻子ともども虜囚の身となる。
処刑の前夜、媛姜は自身をおとりにして夫の脱獄をうながした。盛道は君を置き去りにはできないと決断を渋った。ふたりのそばには5歳になる子の盛翔もいた。家門の存続を願う愛妻の説得に盛道はついに従う。媛姜が監視の目をやりすごし夫と子の脱走・逃亡の時間を稼いだ。
「勉夫済子授命囹圄」 (夫をはげまし子に託し、処刑寸前の命をすくう)。『華陽国志』にある趙媛姜への賛辞である。翌朝、媛姜は処刑された。