趙昌 (唐)

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趙 昌(ちょう しょう、730年 - 814年)は、唐代官僚は洪祚。定州鼓城県の出身。本貫天水郡[1][2]

趙居貞(趙不器の子)の子として生まれた。李承昭が昭義軍節度使となると、趙昌は召し出されてその幕府に入った。貞元7年(791年)、虔州刺史として出向した。安南の獠の首長の杜英翰が反乱を起こし、安南都護の高正平が憂死すると、趙昌は安南都護に任じられた。貞元10年(794年)、家屋の破壊のためを傷つけ、上疏して召還を願い出て、入朝して国子監祭酒となった[1][2]。貞元19年(803年)に後任の安南都護の裴泰が州将の王季元に追放される[3]と、貞元20年(804年)に趙昌は再び安南都護となった[4]

永貞元年(805年)、憲宗が即位すると、趙昌は検校工部尚書を加えられた。ほどなく戸部尚書に転じた[1][2]元和元年(806年)、広州刺史・嶺南節度使となった[5]。元和3年(808年)、江陵尹・荊南節度使に転じた[6]。のちに召還されて太子賓客となった。任につかないうちに、工部尚書に任じられ、大理寺卿を兼ねた。一カ年あまりして、大理寺卿を退任して、工部尚書をつとめた[1][2]。元和6年(811年)、検校兵部尚書となり、華州刺史を兼ね、潼関防禦・鎮国軍使をつとめた[7]。元和8年(813年)、入朝して太子少保となった。元和9年(814年)、死去した。享年は85。揚州大都督の位を追贈された。は成といった[1][8]

脚注

伝記資料

参考文献

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