趙暉
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弱冠にして勇猛果断で募兵に応じ、はじめ晋王李存勗の帳前に属し、後梁の兵と百数戦を経験して、功により馬直軍使に転じた。後唐の同光3年(925年)、魏王李継岌に従って前蜀を破り、部下を率いて南方に守備した。明宗が即位すると、趙暉は洛陽に召還されて、禁軍指揮使に任じられた[1]。
後晋が華北を平定すると、趙暉は衛兵を管掌した。馬全節に従って安州を包囲し、杜重威を補佐して宗城県で戦い、いずれも功績を挙げて、奉国軍指揮使に転じた。開運3年(946年)、部下の兵を率いて陝州に駐屯した。契丹が開封府に入ったと知ると、趙暉は激しく憤り嘆いた[1]。
天福12年(947年)、劉知遠が太原府で起兵すると、趙暉は部将の王晏や侯章と力を合わせて共謀し、遼(契丹)の任命した官僚を追放し、陝州を確保して、劉知遠と連絡した。趙暉は劉知遠により保義軍節度・陝虢等州観察処置等使に任じられた[1]。高祖劉知遠が開封府に入ると、趙暉は陝州を出て入朝した。まもなく検校太尉を加えられた。乾祐元年(948年)、鳳翔節度使に転じ、同平章事を加えられた。王景崇が鳳翔府に拠って反乱を起こすと、趙暉は鳳翔西南面行営都部署となり、兵を率いて王景崇を討った。ときに李守貞が河中府で叛き、趙思綰が京兆府に拠り、王景崇と連係して助け合っていた。さらに後蜀の軍が大散関から出てきたので、趙暉は数千の兵を率いて、数戦して蜀軍を破った。その後に塹壕を掘って鳳翔府の王景崇を包囲した。趙暉はたびたび人を出して挑戦させたが、王景崇は出てこようとしなかった。そこで趙暉はひそかに1000人あまりを潜行させて、蜀兵の旗幟を立てて王景崇の援軍にやってきたように偽らせた。鳳翔府城中の王景崇はこれを信じて、数千人を率いて城を出て包囲を突破しようとした。趙暉は伏兵を設けてこれを待ち受け、王景崇を撃破した。王景崇は再び出てこようとしなくなった。乾祐3年(950年)春、趙暉は鳳翔府城を攻め落とした。検校太保を加えられ、侍中を兼ねた[2]。
広順元年(951年)、後周が建国されると、趙暉は中書令を兼ねた。広順3年(953年)春、入朝して帰徳軍節度使に任じられた。顕徳元年(954年)、開封府に帰ると、老病のため引退を願い出て、太子太師として致仕し、秦国公に進封された[2]。顕徳2年(955年)8月[3]、その邸で死去した。享年は67。尚書令の位を追贈された[2]。