馬全節
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経歴
若くして軍隊に従い、後唐の同光3年(925年)に捉生指揮使となった。趙在礼が鄴都に駐屯すると、全節は鄴都馬歩軍都指揮使となった。天成元年(926年)、明宗が即位すると、全節は検校司空となり、博州刺史・単州刺史を歴任した。天成3年(928年)、竭忠建策興復功臣の号を賜り、郢州刺史に転じた。長興元年(930年)、検校司徒を加えられ、郢州の統治に名声を上げた。まもなく河西節度使に任じられた。明宗が石敬瑭に後蜀を討つよう命じ、軍を岐山県に宿営させると、全節は岐山県に赴任して、轅門で石敬瑭に面会した。石敬瑭は全節を召喚するよう上奏し、全節は沂州刺史に転じた。清泰元年(934年)、金州防禦使に任じられた[3][2]。清泰2年(935年)[4]、後蜀の軍が金州の州城を攻撃してくると、金州の兵は1000人ほどしかおらず、兵馬都監の陳知隠は恐れて、他事にかこつけて城を出て、300人を率いて逃亡した。全節は家財を散じて士に給与し、奇兵を出して抗戦すると、後蜀の軍を撃退した。朝廷にその功績を称賛されて洛陽に赴いたが、枢密副使の劉延朗に賄賂を贈らなかったため、絳州へ出向するよう内示を受けた。全節は不満を漏らし、皇子李重美が末帝に上奏した。末帝は滄州への出向を命じた。翌日、横海軍節度留後に任じられた[5][2]。
後晋の天福2年(937年)[6]、全節は検校太保を加えられ、横海軍節度使に進んだ。天福5年(940年)、検校太傅となり、安遠軍節度使に転じた。李金全が安州で反乱を起こし、南唐の軍を援軍に召し寄せると、全節は兵を率いてこれを鎮圧した。功により検校太尉を加えられ、昭義軍節度・沢潞遼沁等州観察処置等使となった。天福6年(941年)秋、邢州節度使に転じ、同中書門下平章事を加えられた。安重栄が反乱を起こすと、全節は鎮州行営招討副使に任じられ、排陣使を兼ねて、安重栄と宋城県で戦ってこれを撃破した。鎮州が平定されると、全節は開府儀同三司を加えられ、義武軍節度・易定祁等州観察処置等使をつとめた。天福8年(943年)秋、母が死去したため、全節は辞職して喪に服した。ほどなく官に復帰した。ときに契丹の侵攻があり、加えて蝗害や旱魃の被害を受けて、朝廷は徴発を命じた。全節は命令を受けて、統治で生み出した余財を全て貢献した[5][2]。
開運元年(944年)、全節は行営都虞候となった。契丹と晋軍が澶州・魏州のあいだで対峙すると、全節は別軍を率いて白団城を攻め破り、泰州を攻め落とし、守将の晋廷謙を降した。4月、契丹が戚城を破り、兵を率いて北に分進すると、全節は定豊で契丹を破り、契丹の将の安暉を捕らえた。7月、鄴都留守・検校太師に任じられ、侍中・広晋尹・幽州道行営馬歩軍都虞候を兼ねた。10月、天雄軍北面行営招討副使を加えられ、衛村で契丹を破った。開運2年(945年)、順国軍節度使に任じられ、赴任する前に死去した。享年は55。中書令の位を追贈された[7][8]。