趙栩 From Wikipedia, the free encyclopedia 趙 栩(ちょう く、1106年 - ?)は、北宋の徽宗の第7皇子(夭逝を除くと第5皇子)。 経歴 美人喬氏(後に貴妃を授された)の次男として生まれた。同母兄に趙杞、同母弟に趙材・趙朴・趙樾がいる。 崇寧5年(1106年)2月に生まれ、大観元年(1107年)に魯国公の位を授けられた。大観2年(1108年)正月、安康郡王の位を改授された。宣和2年(1120年)に済王を再授された。 靖康の変の際、欽宗の使節として3度金の軍営へ行き、講和を求めた。講和が沙汰やみとなった後、金に連行された。『三朝北盟会編』(1162年完成)によると、同書の頃まで趙栩は金で健在であった。 家族 正室:曹氏[1] 側室:王氏、符鶯奴[2]、馬氏 いずれも金に連行された。 伝記資料 『宋史』 『靖康稗史箋證』 『宋会要輯稿』 『三朝北盟会編』 脚注 [1]靖康の変の際に逃亡したが、開封府の徐秉哲に捕らえられた。 [2]靖康の変後、完顔宗磐の側室となった。 Related Articles