趙鳳 (後周)
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幼くして読書し、童子科に及第した。成長すると、凶悪横暴で力が強く、殺人や強盗を仕事にして、官吏が止めることはできなかった。後晋の天福元年(936年)、安重栄が成徳軍節度使となり、亡命者を招集すると、趙鳳はこれに応募した。法を犯して死刑に処されるところ、くびきを破壊して脱獄し、逃走することができた。天福9年(944年)、契丹の盧龍軍節度使の趙延寿が道案内として、連年深州や冀州に侵入すると、趙鳳は赴いて趙延寿を頼った。契丹の太宗は趙鳳の狡猾さを聞いて、招収軍都指揮使に任じた。右羽林軍都指揮使に転じ、兵を率いて後晋の北辺を侵犯したので、貝州や冀州の民はこれに苦しんだ。開運3年(946年)、契丹が洛陽に入ると、趙鳳は従って開封府にいたり、宿州団練使に任じられた[1]。
天福12年(947年)、後漢の高祖劉知遠が即位すると、趙鳳は交代を受けて開封府に帰り、ほどなく河陽節度司馬に任じられた。乾祐元年(948年)、入朝して右龍武軍将軍となった。父が死去したが、喪が明けないうちに右千牛衛大将軍として復帰した。乾祐3年(950年)、開封府で兵変が起こり、略奪を受けない家はないありさまだったが、ただ趙鳳のいる閭里には、乱兵もあえて侵入しようとしなかった[1]。
後周の広順元年(951年)、趙鳳は宋亳宿単潁五州巡検使に任用された。趙鳳は盗賊の出身だったので、盗賊の潜伏先も良く知っており、盗賊を誘い出しては一網打尽にするのを得意としていた。しかし捕り物のために庶民の家が破壊されることも多かった。単州刺史に任じられたが、気が短くて思いやりがなく、刑事裁判に道理がなかった。人の妻女を奪い、民衆の財貨を収奪したので、人に訴えられた。広順3年(953年)11月、趙鳳はその官爵を剥奪された。12月5日(954年1月12日)、死を賜った[2]。享年は41。
家族
- 曾祖父:趙貞
- 祖父:趙素
- 父:趙彦章