軍人勅諭
1882年に明治天皇が軍人に下賜した勅諭
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沿革
内容
通常の詔勅が漢文調であるのに対し、変体仮名交じりの和文調の文語体で、総字数2843字におよぶ長文。忠節・礼儀・武勇・信義・質素を軍人が守るべきの五つの徳目とし、また軍人は政治に関与しないように明示している[5]。陸軍では将兵は2843文字に及ぶ全文を暗誦できることが当然とされた。一方海軍では、「御勅諭の精神を覚えておけばよい。御勅諭全文より諸例則(関連法規や訓令)等を覚えよ」とされることが多く、全文暗誦を求められることは多くなかった。
内容は、前文で『朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ』と天皇が統帥権を保持することを示し、「下級の者が上官の命令を承ること、実は直ちに朕が命令を承ることと心得よ」と言い渡し、続けて、軍人に忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五箇条の徳目を説いた主文、これらを誠心をもって遵守実行するよう命じ、果たされれば天皇自身の喜びに留まらず、国民皆これを祝うだろうと述べた後文から成る。
五箇条の忠節・礼儀・武勇という徳目は、江戸時代の武士道の徳目であった儒教朱子学における五倫と五常の影響を強く受けている[6]。また、当時の竹橋事件・自由民権運動の影響を鑑み、「忠節」の項において「政論に惑わず政治に拘わらず」と軍人の政治への不関与を命じ、軍人(現役の兵と職業軍人)には選挙権を与えないこととした。ところが大日本帝国憲法(1890年11月)に先行して天皇から与えられた「勅諭」であることから、海軍と陸軍の一部は軍人勅諭を政府や議会に対する自らの独立性を担保するものと位置づけようとするものもいた[7]。政治への不関与を命じたものと位置づけるのが主流であったが、政党政治に終局をもたらせた暗殺テロ、五・一五事件に代表される急進派も存在した。
戦いに於いては「義は山嶽より重く死は鴻毛より軽しと心得よ」と、「死は或いは泰山より重く或いは鴻毛より輕し[8]」という古諺を言換え、「普段は命を無駄にせず、けれども時には義のため、喩えば天皇のため国のために、命を捨てよ」という意味で解釈された。武士道「葉隠」にあるような個人の尊厳を重視したものと明確に差異がある[6]。
下村定大将(陸士20期)は降伏決定の際、徹底抗戦を望む部下たちに「汝等能く朕と其憂を共にせよ」を敗戦時の心得として説得した[9]という。
「御名」
その他
梅津美治郎陸軍大将の誕生日は、軍人勅諭が下賜された明治15年(1882年)1月4日である。
戦争中に陸軍上等兵として中支の戦場にいた、後の戦記作家の伊藤桂一は、戦陣訓と軍人勅諭を比較して次のように述べている[12]。
「戦陣訓」にくらべると、明治十五年発布の「軍人勅諭」は荘重なリズムをもつ文体で、内部に純粋な国家意識が流れているし、軍隊を離れて、一種の叙事詩的な文学性をさえ感じるのである。興隆してゆく民族や軍隊の反映が「軍人勅諭」にはある。「戦陣訓」を「軍人勅諭」と比較することは酷であるにしても「戦陣訓」にはなんら灌漑している精神がなく、いたずらに兵隊に押しつける箇条書が羅列してあるだけである。およそ考えられるかぎりのあらゆる制約条項を、いったい生身の兵隊が守れるとでも思ったのであろうか。ともかく「戦陣訓」には耗弱した軍の組織の反映があり、聡明なる兵隊はそれを読んだ時点で、すでに兵隊そのものの危機を予感したかもしれない。 — 伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史』新潮文庫、2008年(平成20年)
稲田朋美の防衛大臣辞任の要因となった自衛隊日報問題に際し、元外務省の佐藤優は「自衛官たちが二度とこのような行動をとらないように、自衛隊に軍人勅諭を暗唱させ、軍人勅諭の精神を叩き込んだほうがいいのではないでしょうか」と述べている。