1930年に広島県で誕生した[1]。広島県立第一高等女学校に在学中の1945年(昭和20年)8月6日、広島原爆により自宅で被爆した[1]。自身の被爆に加えて、実父を喪った。それまでは平凡な主婦であったが、このことで反核に対する強い思いを抱くようになった[2]。
1980年(昭和55年)に10フィート運動が開始されると、ボランティアとして参加[3]。10フィート運動による映画が完成後、その映画を日本国外に贈る運動に独力で取りくむ決心をした[3]。1982年(昭和57年)夏、ニューヨークの国連本部へ赴いて、核兵器反対を訴えた[1]。
帰国後[4]、神奈川県川崎市の自宅に「“にんげんをかえせ”を海外へ贈る会」を設け、原爆映画をアメリカ、ソ連、中国など、日本国外に贈る運動を続けた[1]。以前から刺繍を趣味としていたことで[2]、刺繍を教えて得た月謝を運動の諸雑費にあてた他、新聞紙上でも協力を呼びかけた[5]。周囲からは、運動への参加者が約7000人、寄付金は2500万円を超えるほどの反響があった[3]。約200本のフィルムが、欧米、アジア、アフリカなど、約40か国へ贈られ[3]、原爆の威力や後遺症の恐ろしさ、核戦争防止や核軍縮の必要性について、数々の声が寄せられた[6]。
1983年(昭和58年)春頃から体調不良を訴え始めた。不調の身でもなお運動を続けたものの、翌1984年(昭和59年)3月に入院。この時点では直腸癌が相当進行しており、人工肛門をつけて入院と手術を繰り返す身となった[2]。その後も、多くの仲間の女性たちの協力を得ながら運動を続けたものの[3]、1985年8月、直腸癌により、満55歳で死去した[1][4]。
母校を前身とする広島県立広島皆実高等学校の学校図書館には、辻の遺稿集『生き残らせていただいて』があり、瀬戸内寂聴が同校に講演に訪れるきっかけとなった[7]。