遠山郁三
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岐阜県出身。ハンセン病治療の先駆者として知られる遠山道栄の二男[3]。1902年、東京帝国大学卒業。1903年2月、皮膚病学梅毒学教室入局(土肥慶蔵教授)。1907年8月講師、10月仙台医専(現:東北大学)教授。1912年4月、東北帝国大学付属医専教授、1917年3月-1918年4月、アメリカ合衆国およびスウェーデン留学。1918年4月、東北帝国大学皮膚科梅毒学教授。医学部長(1920年7月-1922年7月)。1925年9月東京帝国大学教授(皮膚病梅毒学)、1926年7月皮膚科教授。1937年3月定年退官。退官後は東京逓信病院長(1938年7月-1941年2月)。立教大学学長(1937年4月-1943年2月)。戦争中は宮城県に疎開。1946年帰京。国立東京第一病院、聖路加国際病院顧問として皮膚科診療に従事。墓所は多磨霊園[4]。
連圏状粃糠疹
著書および日誌
遠山郁三日誌について
遠山は1937年4月立教大学の学長に着任。日誌には、戦時下の大学内外の出来事が細密で淡々とした筆致で記されている。例えば、戦時下、大学生は労働力として動員されたが、日誌には軍関係施設での勤労動員を求める文部省の指示を受け、立教大学の学生が陸軍兵器補給廠(しょう)などで勤労作業に従事したこと、また、動員期間の延長に伴って、大学での授業時間が削減され、修業年限の短縮が図られていく過程や、在学中から兵士となることを想定した身体訓練(軍事教練)が強化され、さらに軍から派遣された配属将校の学内での発言力が強まっていく様子が書かれている。また、米国の教会(米国聖公会)が作ったミッション・スクールであった立教独自の戦時動向もつづられている。日米開戦後、日本国内で国家主義の徹底化が図られていく中、立教の建学理念は大きく揺らいだ。キリスト教主義という立教の教育目的が文部当局から問題視され(1942年1月)、1942年9月の「学生暴行事件」(詳細は不明)を契機に、立教首脳部が学内外からの圧力に配慮して法人の存立規則(寄附行為)と大学学則から「基督教主義」の文言を削除することを決断し、チャペルを閉鎖した経緯、すなわち太平洋戦争期、立教大学がキリスト教と決別するに至った経緯も記されている。2013年に刊行された[5]。