遠藤守一
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長門国徳山藩士・遠藤春岱の次男として生まれる[2]。のち松岡勘左衛門の養子となり、松岡幾也と称した。
幕末には奇兵隊に参加し、後山崎隊の幹部として活躍した[2]。元治元年(1864年)末、高杉晋作が挙兵して下関奪還を図った際には、山縣有朋のもと滋野清彦、三浦梧楼らとともに三小隊を率い、報国隊と協力して門司・田ノ浦間に上陸、奮戦した[3]。第二次長州征討では豊前小倉口で陸軍奇兵隊第一中隊の隊長として従軍し、騎兵第二銃隊を率いて戦った。
維新後は陸軍局大属として出仕し、のち陸軍少佐に進む。明治4年(1871年)10月28日、少佐に昇任し正七位に叙せられた[4]。
明治5年(1872年)4月20日には、弘前に駐屯していた歩兵部隊が「第20番大隊」として正式に編成され、仙台鎮台からの二小隊を転入して体制を整えるにあたり、陸軍少佐・遠藤守一が地方司令官として弘前城三の丸に司令部(官衛)を設置し、部隊全体の指揮を担った[5]。
明治8年(1875年)には、敦賀士族の寺木定芳が官有煉瓦家屋を乃木希典に譲渡した際、その分割払い契約の身元保証人として遠藤が署名している[6]。
また、『乃木希典日記』には、陸軍入りたての乃木と同僚として遠藤の名がしばしば登場する。