遠藤謹助
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文久3年(1863年)、密かに英国に井上馨、山尾庸三、伊藤博文、井上勝の4人と共に留学し、慶応2年(1866年)に帰国。同年、英国公使ハリー・パークスはジョージ・キング提督に長州藩を訪問させる事とし、井上馨らは三田尻で出迎えて饗応し、翌日停泊する英国艦提督室で毛利敬親父子との会見が実現した。この時遠藤と井上が通訳をした。
明治維新後は、明治3年(1870年)から死去する1893年(明治26年)まで造幣局に務めた。1874年(明治7年)には指導責任者であるイギリス人のお雇い外国人トーマス・ウィリアム・キンドルと衝突し、造幣局を去るが、1875年(明治8年)1月にはオリエンタル・バンクと契約を解消し、キンドル他9人のお雇い外国人が解雇されると、再び造幣局に戻る。1881年(明治14年)には造幣局長となっている。1893年6月20日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた[3]。
