邱少雲
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重慶市銅梁県出身。四人兄弟の次男であるが、13歳の時に両親を相次いで亡くし、小作農、瓦職人、大工、ホテルのボーイなどその日暮らしの生活を送っていた[2]。
1948年6月、国民政府に徴兵され[3]、ボーイの経験があった事から、四川軍第21軍112師18団にて馬夫、炊事夫を務めた。浮腫を患った。邱少雲の弟・邱少華の回想によれば、県で収容されていた際、人を通じて手紙を送り、故郷の回鍋肉が食べたいと伝えてきたという。その後音信不通となり、1951年3月15日に河北省内丘から家族に宛てた長い手紙で朝鮮戦争への参戦を表明するまで続いた[4]。
1949年12月7日、成都战役中、人民解放軍に投降。第10軍29師87団9連(連長:朱斌)一排三班に組み込まれる。それまで一年四ヶ月間国民党の兵士だったという事実は報道では伏せられる事が多い[5]。
成都戦役後、第29師団は内江へ進駐し、内江軍分区の編成と旧中華民国政府統治区域の接収任務を担当した。邱少雲と解放軍に加わった「解放战士」の一団は、軍と共に資中県城に駐屯し、直ちに3か月にわたる政治学習と訴苦教育を開始した。1950年の匪賊掃討戦において、邱少雲は第9連の同郷の戦友たちと共に農民に扮装し、敵の本拠地に潜入。内江の「反共救国軍」司令官・劉海東を生け捕りにし、敵掃討任務を完遂した。この功績により、第9連は師団本部より「剿匪先鋒連」の栄誉称号を授与された[6]。
1951年、朝鮮戦争中に戦死。死後、中国共産党党員に追認される。