景興28年(1767年)に父の明都王鄭楹が死去すると、跡を継いで朝廷から靖都王に封じられた。景興32年(1771年)、広南国の西山県で阮岳(中国語版)・阮恵・阮侶(中国語版)の三兄弟に率いられた西山党の乱が勃発した。景興35年(1774年)、広南阮氏の支配が揺らいだと見た鄭森は、西山三兄弟と手を組んで曄郡公黄五福(中国語版)を将とした軍を大挙南下させ、広南阮氏の本拠地だった富春を攻略した[3]。阮福淳を南方に逃走させたものの、軍内に疫病が広まったために撤退せざるを得ず、広南の地の支配権は西山三兄弟の手中に帰した。
晩年は愛妾の鄧氏恵(英語版)の讒言を信じて世子の鄭棕(後の鄭楷)を廃し、寵愛していた庶子の鄭檊(中国語版)を世子に冊立した。
景興43年(1782年)に死去し、鄭檊が跡を継いだ。聖祖の廟号を追贈され、生前に指定していた盛王と諡された。