鄱陽湖の戦い
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戦いの背景
戦いの始まり
戦いの推移
陳友諒の船団は、巨艦を集めて艦と艦を鎖で繋いで陣としていた。一方、朱元璋の船団は、小型船が中心であり、火力を重視していた。さらには、朱元璋は決戦の4日前、ひそかに伏兵を湖口に伏せていた。朱元璋の軍は小型船が多く、陳友諒の巨艦に恐れをなして戦いは不利であり、陳友諒の配下の勇将張定辺が一時朱元璋の旗艦に肉薄するほどの苦戦となった。しかし陳友諒側は長期包囲戦の後の疲労もあり、兪通海率いる火砲船団が鈍重な陳友諒の船舶を次々を火だるまに変えていき、戦いの主導権は徐々に移りつつあった。戦いの3日目、にわかに東北の風が吹くと、朱元璋は決死隊による火船七艘を陳友諒に突っ込ませたため、折からの強風により密集した巨艦は炎上し「煙焔天にみなぎり、湖水ことごとく赤なり」という地獄絵図と化した。陳友諒軍は斬首された者2000余、溺死・焼死した者は数え切れずという壊滅的敗北を喫することとなった。さらに陳友諒の弟で勇略を謳われた陳友仁が死亡したことで、士気は激しく低下した。陳友諒は逃亡を図るも、朱元璋が湖口の地を伏兵でふさいでいたため、数日の睨み合いとなった。兵站線を断たれたため、陳友諒軍からは寝返りが相次いだという。結局、陳友諒は湖口の突破を試みるが、矢に当たって戦死した。