羅貫中
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羅 貫中(ら かんちゅう、簡体字: 罗贯中、約1330年 - 1400年頃?または約1280年 - 1360年頃?[1])、諱は本[注釈 1]、号は湖海散人、中国の元末明初の作家[2]。
通俗白話小説の作家として知られており、中国四大奇書のうちの二作品『三国志演義』『水滸伝』の編作者とされる。
しかし事績はあまり明らかではなく、出身地や著作を巡って歴史学界で長年論争になっている。施耐庵の弟子だというが、施耐庵関係の史料の信憑性が著しく低いことから疑問視されている。なお字は「貫中」であり、「漢中」は誤りである。
羅貫中の生涯については史料が乏しく、ほとんどのことが判っていない。信頼できるまとまった史料は羅貫中の友人・賈仲明の『録鬼簿続編』に見え、
と書かれている[注釈 2]。事績の多くは民間伝承に依るところが大きく、そのため常に諸説紛々としており、雑劇作家の羅本、字(あざな)貫中なる人物について、史実と見られるのはここまでだと中国文学者の金文京・高島俊男は論じている[2][3]。

三国志演義/水滸伝/西遊記/紅楼夢
それ以外の細かい情報としては、元末期の朱子学者・趙楷の門人の一人に「羅本」という人物がおり、これが羅貫中と同一人物らしいことが判明していること、明代に世間の噂話をまとめた『七修類稿』などに「『三国志演義』・『水滸伝』は杭州の羅貫中の作品」[4]だという記載があること(→#中国の見解/#俗説・異聞)[5]、後述の『百川書志』に記述がある(→#日本の見解)。
また、羅貫中は放浪の旅の作家だったために正史『三国志』を十分利用できず、正史の簡略本である『十七史詳節』を用いていたとみられ、『三国志演義』の古版本ではしばしば『十七史詳節』からの引用が見られるという説がある。(→#作者か否かを巡る論争)[6]。近年の中国の研究(陳遼による論説など)では、従来同一視されてきた「雑劇家の羅貫中(太原出身)」と「小説家の羅貫中(東原出身)」は、生年代が40年以上離れた「別人」であるとする見解がある(→#二人の羅貫中説)。
2011年、故郷の一つと目されている山東省東原(現:東平)に、羅貫中を記念した「羅貫中記念館」が開館している(→#羅貫中記念館)。
出身地

出身地については以下の4説が存在し、文学・学術界で長年論争が続いている[7]。
(3)(4)については確証が得られていない。近年、山西省祁県河湾村にて羅貫中の家譜(家系図)と印章が発見されたというが、それらが『三国志演義』(以下、『演義』)の編作者・羅貫中と同一人物であるかを証明する記述は見つかっていない[7]。この中で(1)太原説と(2)東原説が有力視されており、『演義』研究界において見解が分かれ、互いに譲らない状態が続いてきた[7]。
以下、(1)(2)を中心に概説する。
(1)太原説

羅貫中の出身地を「太原」とする説の根拠は、先述の賈仲明(の作とされる)『録鬼簿続編』(以下、『続編』)である。羅貫中と「忘年交」(忘年の交わり)の仲であった『続編』の作者が親友の出身地を間違えるとは考えづらく、そのため太原説は信憑性が高いと言える[12]。
しかしこの説には不可解な点もあり、『続編』の中で著者は羅貫中の作品として雑劇『風雲会』『連環珠』『蜚虎子』のみを挙げ、当時すでに知名度を得ていたはずの『演義』については一言も触れていない[12]。羅貫中が朱子学者・趙楷の門下だったことを発見した中国の学者王利器は、「趙楷は東原の近隣で塾を開いており、『続編』の〈太原〉は〈東原〉の誤字だろう」と推測し、写本のミスとして太原説を否定している[13]。
(2)東原説

羅貫中の出身地を「東原」とする説の根拠は、明の蔣大器が弘治7年(1494年)に書いた『三国志通俗演義』序文において、羅貫中について極めて明確に記している[14]。
当時、この序文が書かれる以前から『三国志通俗演義』は流行しており、明代に刊本されたさまざまな『演義』の版本にも同様に「東原」と記しており、人々の間で広く「東原の人」と認定していたとみられる[15][14]。
『水滸伝』も同様に、現存する最も完全な版本『水滸志伝評林』(1594年)の署名には「中原:(山東省の西部を含む地域)の貫中、羅(姓)、本(諱)、名卿(号)父(尊称)編集」と記され[16]、百十五回本『水滸伝』には「東原 羅貫中 編集」、百十四回本『水滸伝』には「東原 羅貫中 参訂」と署名されている[14]。また、陳遼によると羅貫中は『演義』の中で山東省内の些細な歴史人物に精通しており、東原と太原に対しての習熟度や認識、情熱の度合いが明らかに異なっていることを指摘し、東原に対し強い郷土愛と知識を有していたとする[14]。
作者か否かを巡る論争
一説に四大奇書とされる『三国志演義』・『水滸伝』の作者であると言われているが、日中の学界で議論が分かれている。
中国の見解
明・嘉靖年間の人々は『水滸伝』の作者として施耐庵と羅貫中を並べて挙げているが、『水滸伝』のテキストそのものは羅貫中の手によるものだとし、かつ彼こそが『演義』の作者である「羅本、字は貫中」と考えていたという[17]。郎瑛の『七修類稿』、王圻の『続文献通考』、田汝成の『西湖遊覧志余』など、多くの学者が羅貫中を作者だと肯定している。
二人の羅貫中説
羅貫中の出身地(1)太原説に依れば、「雑劇家・羅貫中」は太原の人であり、(2)東原説に依れば、『演義』『水滸伝』の作者「小説家・羅貫中」は東原の人である。陳遼は(1)(2)を同姓同名の別人として捉え、以下の見解を示している[18]。
(1)太原の羅貫中については、陳遼は『続編』の記述(→#概要)にある「忘年交」(忘年の交わり)に注目し、これは20歳以上の年齢差がある関係を指す言葉で、『続編』の作者は明の永楽20年(1422年)時点で80歳であったことが判明しており、逆算すると生年は1343年となる。羅貫中と「忘年交」を結んだのが17歳時(1360年)と仮定すると羅貫中は37歳、最後に会ったという至正24年(1364年)では作者は21歳、羅貫中は41歳となることから、その生年はおよそ1323年、75歳まで生きたと仮定すると没年は1398年となる[12]。
(2)東原の羅貫中については、延祐5年(1318年)の状元(科挙の首席合格者)・霍希賢の子孫とする者が次のように紹介している[14]。
霍希賢と羅貫中は同時代の人でした。彼には「羅本」という親友がおり、その人こそが『水滸伝』を書いた羅貫中なのです。羅貫中は宿城の羅庄に住む大家族でした。私の先祖・霍希賢は彼と親しく付き合うために、自分の屋敷を宿城に建て、屋敷同士が隣り合うようにしました。我が家の霍希賢と羅貫中は義兄弟の契りを結んだ仲であり、その関係は手足のように親密なものでした。
子孫を称する者によるこの話が真実であった場合、霍希賢が状元になった時の年齢を35歳(1283年生まれ)とし、羅貫中が3歳年下と仮定すると、東原の「小説家・羅貫中」の生年はおよそ1280年、80歳まで生きたとすると、没年は1360年頃となる。
また、陳遼は魯迅が著書『中国小説史略』の中で、以下の見解を述べていることを取り上げている[19]。
現存する『水滸伝』を観察すると、実際には二種類あることがわかる。一つは簡略なもの、もう一つは繁雑なものである。…百十五回本の簡本は、おそらく繁本よりも先に成立した。なぜなら用字や造句が繁本としばしば異なっており、もし繁本を要約しただけのものであるなら、わざわざ文章を作り変える必要がないからだ。また、簡本の著者は羅貫中とのみ題されており、周亮工が古老から聞いた話でも、ただ羅氏の名前だけが挙がっていた。後に繁本が現れて初めて〈耐庵〉の名が着けられた。ゆえに施耐庵という名は繁本へ書き換えた者が使った仮名(托名)であり、後から付け加えられたもので古本には無かったのではないかと疑われる。後世の人は繁本に〈施耐庵が作り、羅貫中が編む〉とあるのを見て、それが仮託であることに気づかず、勝手な想像で耐庵と貫中は同郷の銭塘の人であり、かつ師弟関係であると定めてしまったのである。 — 魯迅『中国小説史略』「第十五篇:元明伝来之講史(下)」[20]
陳遼によれば、出土した施耐庵の子孫(施譲と施廷佐)の墓誌銘を考証した結果、施耐庵の生没年は1332年〜1406年と判明したことから、明代の記録の多くが『水滸伝』の作者を羅貫中としているのは、このためだとする[19]。つまりは、梁山泊に近い東原を籍貫(ルーツ)とする(2)「小説家・羅貫中」が、晩年に簡本の『水滸伝』を執筆し、のちに施耐庵がそれを加工・改写・再創造して今日に伝わる繁本の『水滸伝』にしたという。陳遼は魯迅の見解を支持し、『水滸伝』は「羅貫中と施耐庵の合著とされるべき」だと主張している[19]。
| 人物 | 分類 | 推定生没年 | 役割 |
|---|---|---|---|
| (2)東原の羅貫中 | 小説家 | 1280年 - 1360年頃 | 『三国志演義』作者、『水滸伝』簡本の執筆 |
| (1)太原の羅貫中 | 雑劇家 | 1323年 - 1398年頃 | 劇作家(別人) |
| 施耐庵 | ——— | 1332年 - 1406年 | 『水滸伝』繁本へ改写 |
以上を踏まえると、(2)東原の「小説家・羅貫中」の年齢は、(1)太原の「雑劇家・羅貫中」よりも40歳以上年長で二世代近くの開きがあり、また、『続編』作者が『演義』に触れていないといった矛盾からも、この二人を同一人物とするにはさまざまな整合性が取れず困難であり、この説は『水滸伝』の簡本を羅貫中が執筆、のちに50歳以上年下の施耐庵が繁本にしたとする時系列とも符合するため、陳遼はこれらを根拠として、別人説を唱えている[注釈 3]。
日本の見解
一方で、日本の中国文学研究者・高島俊男は「中国の学者の大多数は羅貫中を『演義』・『水滸伝』の作者としている。しかし、自分は到底承服できない」と主張した[21]。羅貫中が『演義』・『水滸伝』の作者であるという説の根拠の一つは、明の武将・高儒の蔵書目録『百川書志』「巻一:雑史」の項で、そこには以下の記載がある[注釈 4]。
- 『三国志通俗演義』二百四巻:晋の平陽侯・陳寿の史伝、明の羅本貫中の編。
- 『忠義水滸伝』一百巻:銭塘の施耐庵の本、羅貫中編次。 — 高儒『百川書志』
しかし、羅貫中と『演義』・『水滸伝』との関連性は高儒の記録を除くと『演義』の古版本の刊記[注釈 5]、世間の噂を集めた『七修類稿』[4]くらいしか確証がなく、どれも簡単な記載ばかりである。その上、下記の問題を抱えており、日本の学界ではあまり肯定的な見解はない。二作品は日本の学界では複数名による作品ではないかという説も存在する[24][25]。複数名説を取る高島及び中国文学者の上田望の批判を要約し、以下、区別が付きやすいよう元末の劇作家を「羅本」、『演義』・『水滸伝』の著者グループを「羅貫中」とする。
まず高島俊男の説は以下の通りである。
- 中国の学者は、『百川書志』を元に、元末(1364年頃)に生きていた羅本が書いた小説が原稿か手書き写本で伝承され、約150年後の明代中期に陸続と発見されたとしているが、1364年頃にこれほど整った小説の形式があったとは考えられない。このような整理された小説は明の嘉靖年間(1522年 - 1566年)までくだらなければ出現していない。要するに時代が離れすぎている[26]。
- 『演義』・『水滸伝』の編者の羅貫中というのは、おそらく元末の羅本と何の関係もない創作グループの共同ペンネームだろう。羅貫中編という小説がヒットしたために便乗作品も多数生まれたとみられ、グループは1つではなかっただろう[27]。
- 記録には羅貫中を名乗る別の出身地の文人が複数名登場しており、矛盾している。また、親友の賈仲明の記録で代表作の『演義』が出てこないのはおかしい。また羅貫中が『演義』を書いたと主張する人々は賈仲明が『演義』について触れていないことについて、「小説を書いたことは名誉なことでなかったから記載しなかった」「羅貫中と賈仲明が離れ離れになってから『演義』が書かれた」と主張するが、いずれも根拠が乏しく科学的な説明ができていない[28]。
- 元末の羅本は記録を見る限り旅の劇作家であり、あちこちを転々としていた人物である。『演義』は正史『三国志』を注までよく読み込み、更に『後漢書』・『資治通鑑』など、大部の史書を縦横に引用しながら書かれている。羅貫中=羅本説を取る人々は、正史『三国志』を読めない羅本が正史の簡略本『十七史詳節』を使ったと主張しているが、信じがたい。なぜなら、『十七史詳節』は裴松之注を省略しており、正史本文ではなく裴松之注に依拠しなければ書けない箇所が『演義』にはあるからだ[29]。更に『演義』の末尾部分は朱熹の『資治通鑑綱目』を読んで書かれていると思われる。しかし、これも講釈師が使った略本ではなく、『資治通鑑綱目』のしっかりとした完本を読んだ形跡がある。となると、元末の旅の一劇作家にすぎない羅本が、裴松之注がついた正史『三国志』と『資治通鑑綱目』全五十九巻を蔵書してそれをつかいこなして『演義』を書けたものだろうか。いや、それほど多くの史書を読み込めたはずがない。すなわち元末の羅本が『演義』を書くことは不可能であったのではあるまいか。当時書物は高価であり、上記のような史書はよほどの資産家か蔵書家が関与していない限り使用すら出来なかったであろう。だとすれば、羅本とは無関係な明朝中期の無名のそこそこの教養人が『演義』の真の作者ではないだろうか[30]。
なお、金文京は羅貫中複数名説について、「そういう説もあるが、出身地が複数有ることは、元の時代は騎馬民族国家で人の移動が激しかったために合理的に説明できる。羅貫中の〈湖海散人〉という雅号は正史三国志に登場する劉備の部下陳登に由来するのだろう。もちろん『演義』成立以前に羅貫中の名が騙られた可能性もある」[31]、「『十七史詳節』以外にも『古文真宝』など、史書の略本は羅貫中は色々使っているようだ」[32]と中立的な見解を示している。
羅貫中の著作か疑問視されている書物
『三遂平妖伝(略称:平妖伝)』、『残唐五代史演義(略称:五代史演義)』、『隋唐両朝志伝演義(略称:隋唐演義)』などの歴史小説も「羅貫中編次」とされるが、金文京は「これらの書物が羅貫中作である可能性は『演義』よりはるかに低い」としている[33]。金の研究によれば、これらの歴史小説は『演義』を真似て書かれており、固有名詞を入れ替えれば『演義』と同じ話になってしまうところが複数あるといい、このことから金は「〈羅貫中編次〉は〈羅貫中の『演義』風の歴史小説〉くらいの意味しか持っていない。これらを羅貫中の作とすることは出来ない」と述べている[34]。高島俊男は前述のように「羅貫中」を称する作家グループが複数存在し、便乗作品が多数出た可能性を示唆している[27]。