配志和神社
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配志和神社(はいしわじんじゃ)は、岩手県一関市山目字館に鎮座する神社である。蘭梅山(らんばいさん)の中腹に鎮座し、一関市街地を見下ろす高台に位置する。境内へは長い石段参道が続き、杉の巨木群に囲まれた社叢を有する。一関地方において数少ない式内社の一つであり、古代から中世にかけての磐井郡地方の信仰を考える上で重要な神社[1] [2]である。
延喜式神名帳に記載される陸奥国磐井郡の式内社に比定される古社であり、近代社格制度では県社に列した。
祭神は高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)[3]である。
また、火石輪(ほしわ)という古い社名伝承や磐座山との関係は、神社成立以前の自然崇拝・磐座信仰の痕跡を残す可能性があり、北上川流域南部の古代信仰を考察する上でも注目されている。
概要
古代 社伝によれば、景行天皇の時代、日本武尊が東征の際に当地へ進軍し、磐座山の頂上に三神を祀って東奥鎮護を祈願したことに始まるという。この神祠は当初「火石輪(ほしわ)」と称され、後に「配志和」へ転じたと伝えられる。
『日本文徳天皇実録』仁寿2年(852年)条には、配志和神社へ神階が授けられた記事が見られ、少なくとも平安時代前期には朝廷から認識された神社であったことが確認できる。さらに『延喜式神名帳』(927年成立)には陸奥国磐井郡の式内社として記載されている。
伝承では、当初は磐座山(いわざやま)に鎮座していたが、延喜年間(901〜923年)に現在地へ遷座し、延長 (元号)5年(927年)頃に現在の「配志和神社」の社名となったとされる。磐座山には二基の石碑が残っている[4]。
中世・近世 応仁年間(1467〜1469年)の戦乱で社殿が焼失し、その後は「蘭梅明神」あるいは「梅宮」と称された時期があったとされる。これは蘭梅山の伝承と関係する。蘭梅山には、菅原道真の子と伝わる菅原敦茂が父の育てた蘭と梅を植えたという伝説が残されている。現在の社名よりも「蘭梅山」の地名の方が地域では古くから知られていた。
江戸時代に入り、古記録との照合から当地の神社が式内社・配志和神社に比定されるようになった。慶長年間には再興が進められ、近代には郷社を経て県社となった。
