野元為輝
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東京出身。本籍鹿児島県。東京府立一中を経て、海軍兵学校のほか陸軍士官学校(28期)を受験し陸士も合格している。1916年(大正5年)11月に海軍兵学校44期を56番/95名で卒業。同期生に西田正雄(戦艦「比叡」艦長)、松田千秋(戦艦「大和」艦長)、黒島亀人(連合艦隊首席参謀)、佐藤康夫(第8駆逐隊司令)らがいる。1929年(昭和4年)11月、海軍大学校甲種27期を卒業。
野元は海大航海学生を終了した航海科専攻士官で、重巡洋艦「鳥海」など15艦[1]で航海長を務めた。海大卒業後は第3戦隊、第4艦隊各参謀を歴任。艦政本部時代には大和型戦艦の設計に関わっている[1]。木更津空副長として南京爆撃行に攻撃機に搭乗して参加している。1939年(昭和14年)11月、海軍大佐へ昇進するとともに第14航空隊司令に就任し、以後航空部隊の指揮官職を歴任する。
水上機母艦「千歳」、空母「瑞鳳」の艦長を経て、1941年(昭和16年)9月、筑波航空隊司令として太平洋戦争を迎え、1942年(昭和17年)6月、「瑞鶴」艦長に就任。第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦と歴戦した。以後、練習連合航空隊総参謀長を経て1944年(昭和19年)5月、少将昇進。第11連合航空隊司令官を経て、第903航空隊(大湊)司令官として終戦を迎えた。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[2]。
1979年(昭和54年)には有志と海軍反省会を設立し、代表に就任。最高顧問に新見政一、保科善四郎を迎え、勝算なき戦争に突入し敗北した理由を討議した[3]。反省会における野元は、海軍内で暗黙のタブー視されていた伏見宮博恭王の軍令部における責任を主張した。