東京府東京市麹町区で生まれる。弟は作家の野坂昭如。
父・相如の後妻・笑子は活動弁士西村楽天の長女。その影響で頻繁に寄席に通い、一時は落語家を目指す。
1945年〈昭和20年〉東京農業大学専門部緑地土木科卒業。新潟県緑地部に土木技師として務める。
昭和30年代からジャズ評論、新潟県へのアーティスト招聘活動をはじめる。毎月50〜70枚のレコードを買い続け、ジャズ同好会「ニイガタ・ジャズ・フレンズ・アソシエイション」を発足すると、会員に輸入レコードを市価の3割引価格で斡旋。あっという間に月5千枚程のレコードを扱うようになり、新潟県内のレコード屋を存亡の危機に追い込むことになる。結果、告訴されることになったが、それが記事となり更に知名度が上がると、もはや野坂の手には負えなくなり自滅した。
1966年〈昭和41年〉、映画とジャズ同人誌「C&J」を発刊。
1971年〈昭和46年〉、「新潟映画研究会」に入会、後に縛りものを中心としたピンク映画にも夢中になり、同好の士と「ピンク映画の会」を結成[1]。
1973年〈昭和48年〉、新潟パイプ・スモーキング・クラブを結成。全日本のパイプクラブ連盟副会長にも就任。メシャム(海泡石)パイプのコレクター、権威者としても知られる[1]。
1973年〈昭和48年〉、セシル・テイラートリオ新潟公演を一人で開催。130万円のギャラを捻出するため、8000枚のレコードコレクション内2000枚を銀座ハンターに売却して資金づくりをする。イベントは好評を得るも収支は赤字。しかし、その熱意を知ったイベンターからギャラを負けてもらい、大幅な赤字は免れる[1]。
1988年〈昭和63年〉、胆嚢癌のため新潟県立がんセンターに入院。
1989年〈平成元年〉3月6日、永眠。
同年12月、旧友で作られた野坂恒如遺稿編集委員会が『野坂恒如評論集』を新潟日報事業社出版部より刊行。野坂昭如も言葉を寄せた[1]。