野田清一郎
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1883年、岡山県岡山市旭町に生まれる[3][注釈 1]。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、旧制第六高等学校を経て[5]、1906年(明治39年)9月に京都帝国大学理工科大学入学[3]。「電気の鬼」と評された青柳栄司[6]の指導のもと、電気工学の研究に打ち込んだ[7]。1908年(明治41年)7月に同大学電気工学科を卒業するとともに講師に着任し、1910年(明治43年)には助教授となった[3]。
1918年、自費で[3]欧米留学[8]、コーネル大学客員教授を務めた[9][注釈 2]。帰国後の1920年7月26日、学位論文『交流量ノ処理ニ関スル「マトリックス」法』により、京都帝国大学から工学博士を授与された[3][12]。
1920年10月には旧制熊本高等工業学校に赴任、教授を務めた。当時松前重義[13]、立石一真が学生として在籍し、立石に兵庫県土木課の就職をあっせんするなどした[14]。1926年3月、旅順工科大学(旧三工大の一校、戦後閉鎖)に転任して教授を務め、送電線の機械的特性に関する研究と並行し、電気工学分野の指導を行った。1931年に旅順工科大学の学長に就任、応用化学・航空工学などの学科新設や予科拡張といった大学の拡大に努めた。1941年4月に退官、7月に同大学名誉教授の称号を授与された[15]。
帰国後、松前重義らによって1943年に新設された航空科学専門学校(東海大学の前身)の初代校長に着任した[13][16]。翌1944年6月には東京都電気研究所の所長となったが、同年9月には蒙古政府が設立した蒙古科学院の初代院長に任命された[17][18]。第2次世界大戦後の1947年には郷里の岡山で関西中学の校長となった[19]。
1949年、新制大学として設立された大阪工業大学の初代学長に就任した。終戦から間もない時期で早期の復興が求められる中、野田は新入生に向けた訓示で百丈懐海の教え「一日不作、一日不食」を引き合いに出して学生の奮起を促したという[20]。開学初期の電気工学・電力工学(のちのパワーエレクトロニクス)の研究・発展に電気工学科の柴山廣らと共に貢献した。アメリカの大学における工業教育の構成を範として、大学と企業の産学連携および夜間部の推進を行った[21]。1950年には大阪工業大学短期大学部(第二部/夜間部)を創設、初代学部長も兼務した[22]。1957年、同じ青柳門下の加藤信義[7]に後を委ねて学長および短期大学部学部長を退任[23]。大学発展の功績により、1968年4月には大阪工業大学より名誉教授の称号が送られた[24]。
この間、1952年(昭和27年)には母校・京都大学電気工学科卒業生を中心に設立された同窓会組織である洛友会の初代評議員となった[25]。また大阪工業大学を退職後は、近畿大学理工学部の教授を務めた[11][17]。
1968年5月10日未明、大阪市北区の病院で肺腫瘍のため死去[24][26]。同月18日に池田市の一乗院で告別式が行われた[26]。
娘婿である小林宏治[27]は、野田が日本の電気工学にマトリックス理論を導入したことを称え、自著に献辞を記している[28]。