金丸久夫
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岡谷工では投手で、七色の変化球といわれるほど多彩な球種を持ち[3]、打撃でも3番打者を務めていた。1981年、高3の夏、長野県大会では、佐久高相手に5‐0で無安打無得点試合を達成、準決勝では6年連続で甲子園出場中であった松商学園を1安打完封2‐0で下し、決勝も上田高を5‐0で完封し甲子園出場を決めた。
本大会では、1回戦の津久見高相手に15奪三振5‐2で勝利し、同校史上51年ぶりの甲子園勝利を上げた。この試合は、初回にカーブを狙われていると気付き、速球主体に切り替え勝負球にナックルを投じた。また打っては5回表に3点三塁打を放ち、津久見の小嶋仁八郎監督は「完敗です」と述べた[4]。2回戦は加藤誉昭擁する都城商と対戦。4回裏、加藤に直球を中堅に本塁打されたが、5回以降は無安打に抑え、6回表に自らの犠飛によって同点に追いつき、押し気味に進めながら1-1で延長戦に突入。12回裏、カーブを狙っていたという加藤に右翼ポールすれすれにサヨナラ本塁打され1-2で惜敗した[5]。この年の暮れ、ドラフト外でロッテオリオンズに入団が決まり、背番号62で内野手に転向することになった。
入団後、腰を傷めたこともあり、1983年に退団し[6]、地元に帰り配管工の職に就いていた。
1990年2月27日午前2時10分頃、長野県諏訪郡下諏訪町南高木の県道を金丸が3人の若者を乗せて乗用車を運転していたところ、ゆるい左カーブを曲がり切れず、対向車線にはみ出し、大型トラックと正面衝突。乗用車は大型トラックの下に潜り込み形になり、屋根は完全にはぎ取られた。金丸は岡谷市の病院に救急搬送されたが、1時間半後肺挫傷のため、同乗者3人とともに死亡した。享年26[7]。当日は小雨でスリップしやすかった。