金刺舎人麻自
From Wikipedia, the free encyclopedia
記録
『続日本紀』巻第二十に、孝謙朝の天平勝宝9歳(757年)8月、
駿河国益頭郡(やきづぐん)の人金刺舎人麻自、蚕(こ)産みて字を成すを献(たてまつ)る
とある[3]。これにより、天皇は勅を出して、以下のような内容のことを述べた。
自分は徳が薄いにもかかわらず、皇位を継いで9年になるが、これまで善政を行わず、淵に臨んでいるように危うい気分でおり、氷を踏んでいるように慎重にしている。去る3月20日に、皇天(天の神)は「天下太平」の4文字をお示しになった。しかるに橘奈良麻呂らの陰謀が発覚し、天の責を受け、ことごとく罪に服し、事件は大事に至らずに落着した。
ここに、駿河国益頭郡の人、金刺舎人麻自が献上した蚕の卵が自然に書いた文字を得た。それは「五月八日開下(かいか)帝釈(たいさく)標知天皇命百年息」とあった。国内はこの瑞祥を頂いて喜んだが、どうすれば良いのか分からなかった。そこで群臣に議論させたところ、
「5月8日は太上天皇の一周忌のために法会を設けて悔過(けか、罪を悔いて改めること)が終わる日です。帝釈天は皇帝と皇太后(光明皇太后)の至誠に感じて、天門を開き、地上界の陛下の優れた仕事を見て、陛下の御世が百年続くことを示したものです。日月の照らすところ、聖胤(天子の子孫)が繁栄し、乾坤の載せるところ、宝祚(ほうそ、皇位が長く続くこと)が延長することを知っています。この瑞兆は国家が全く平らかになるしるしです。謹んで考えると、蚕は虎のような模様を持ち、時に皮を脱ぎ、馬のような口を持ちながら争うことなく、室内で成長して衣服を人々に与え、朝廷や祭礼の服もこれから作られる。このため、神虫をして、字を作り、用いて神異をあらわそうとしている。今、禍も収まった時、自然に霊字を呈し、戈を止める日に、朝廷に奏上した。これは天祐であり、吉兆であって、五八の数を並べると宝寿の不惑(40歳)に通じ、日月はともに明るく皇居の末永い栄えを象徴します」
といった。朕は自身の徳の薄さを恥じ、この瑞兆は賢明な補佐のもたらした功である。この天の恩恵を天下に知らしめるために、改元し、天平宝字元年とする。
以上のように述べ、調庸の減免、雑徭の半減、公出挙の利子の免除、天下の租の半分の免除(寺院・神社は除く)などを決め、瑞兆を献上した無位の庶民である麻自は従六位上に叙し、絁20疋、調の綿40屯、調の布80端、正税2千束を与えられ、取り次ぎをした駅使の中衛舎人も昇叙され、奏上をしなかった国司や郡司には加増しないが、益頭郡の人民の租税を1年間免除された、とある[4]。
考察
この瑞祥の上奏は、国司や郡司の手続きを経ず、直接中衛舎人によってなされたことが異例である[5]。