金剛場陀羅尼経

From Wikipedia, the free encyclopedia

金剛場陀羅尼経(こんごうじょうだらにきょう)は闍那崛多が漢訳した雑密経典である[1]。本項では日本の文化庁が保管する、同経の飛鳥時代の写本について述べる。

書風

一巻からなる飛鳥時代後期(白鳳期)の写経が日本の国宝に指定されている[2]。縦26.1 cm[2]、全長7.12 m[2]または688.7 cm[1]。現存する日本最古の写経[1]。紙に書かれた現存する日本の文献として最古に類し、聖徳太子筆とされる三経義疏に次ぐとされる[3]。1951年6月9日に国宝に指定[4]。「小川本金剛場陀羅尼経」とも呼ばれる[5]

料紙は縦26センチ、長さ46センチほどの麻紙を用い、淡墨界を引き、1行17字に書写する[6]。料紙は15紙をつなぎ、行数は1紙あたりおおむね27行とする。ただし、誤植の手直し等を行ったためか、行数が27より少ない料紙もある[7]。巻末の第15紙には、本文と同筆で、以下の奥書(願文)が書写される[8]

歳次丙戌年五月、川内国志貴評内知識、為七世父母及一切衆生、敬造金剛場陀羅経一部、藉此善因往生浄土終成正覚。教化僧宝林。
(読み下し)歳(ほし)は丙戌に次(やど)る年の五月、川内国志貴評(しきのこおり)内の知識、七世父母及び一切衆生の為、敬(つつし)みて金剛場陀羅経一部を造る、此の善因を藉(か)りて浄土に往生し終に正覚を成さんことを。教化僧宝林。

「川内国」は「河内国」に同じ。「志貴評」は、大阪府八尾市付近を指す地名と推定される。同市には「志紀」の地名が残る[9]。「知識」とは仏教を信じ、その教化活動に協力する者の集団を意味する[10]

「丙戌年」については、686年、746年などが該当するが、「郡」の意味で「評」字を用いるのは、律令制度以前の用字であることから、本経の書写年次は大宝令以前の686年(朱鳥元年)とするのが定説である[6][11]。この写経が、浄御原律令下に「評(コオリ)」という地方組織の単位があったことを示す史料の一つでもある[1]

玄奘に指導を受けた道照が持ち帰ったものではないかとされる[12]。「法隆寺一切経」の黒印があることから法隆寺に伝来していたと考えられるが[2][1]、巷間に流出して個人蔵となっていた[7]。2005年に文化庁が京都市の個人から5億4000万円で購入した[13]

中国・六朝時代の書風を留めている[2][1]とともに、初唐の書風がとり入れられており[1]欧陽詢[1]もしくは欧陽通欧陽詢親子の影響が見られる[14][15]

書道史研究者の魚住和晃は、字形の分析結果をふまえ、本経の書体は写経体ではなく、初唐の欧陽詢の書風に近いとする。また、「長谷寺銅板法華説相図」の銘の書体との類似も指摘されている。「教化僧」の「宝林」が本経の筆者であるか否かは不明である。前出の魚住和晃は、「郡」の意味で「評」字を用いるのは朝鮮の用法であるから、筆者は朝鮮系の渡来人であろうと述べている[16]

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI