日本統治時代の黄海道殷栗生まれ。渡日し、豊島商業学校(現・豊島学院高等学校)卒業。 1951年に詩『石の山(原文: 돌각담)』を発表した。1957年には金光林ら3人で『戦争と音楽と希望と』を発刊した[2]。その後『現代詩』で同人活動し、『鐘つき自転車』、『試写会』、『橋の下』、『原色』などを発表し、1968年に文徳守、金光林とともに詩集『本籍地』、1969年に個人として詩集『十二音階』を刊行した。 1971年に現代詩学賞[3]、1983年に大韓民国文学賞優秀賞を受賞した。 詩集に『太鼓を叩く少年』『誰かが私に聞いた』などがある。持病により63歳で死去した[4]。
他に映画の助監督、劇芸術協会演出部の音楽効果、軍事ダイジェスト社記者を務めたことがあり、国防部政訓局放送室の常任演出者を10年間務めた後、1963年から東亜放送製作部で勤務した[1]。