金沢治
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1899年2月14日、徳島県美馬郡半田町(現:つるぎ町)に金沢与平の長男として生まれる[4]。
1923年4月、上京し国学院大学高等師範部に入学する[4]。在学中は折口信夫に師事する[5]。
1926年、国学院大学高等師範部を卒業し[5]、神奈川県立商工高等学校に就職する[4]。
1930年10月6日、文部省が懸賞応募した「日本青年の歌」に歌詞が当選する[6][注釈 2]。
1933年、徳島県立美馬高等女学校に転任する[4]。
1942年、徳島県立海部高等女学校の校長となる[4]。
1950年4月から徳島県史編纂を企画する。同年7月、徳島県立辻高等学校の講師となる[4]。
1959年11月、「徳島県史編さん委員会」を発足する[4]。
1967年、徳島県資料調査員に任ぜられる[4]。1973年11月、胸部疾患により退職する[4]。
1972年5月、徳島県知事表彰を、同年11月、勲四等瑞宝章を受ける[2]。
1981年5月11日、昼過ぎから散歩に出掛けたまま帰らなくなり、翌日に徳島市八万町の圓福寺において「これ以上老醜をさらしたくないので自決する」という旨の遺書を残し、首吊り自殺をしているのが発見される[2]。