金相福 (軍人)

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死没 (1979-06-16) 1979年6月16日(55歳没)
大韓民国の旗 韓国ソウル特別市鐘路区明倫洞
軍歴 1944-1945(満洲国軍)
1946-1968(韓国陸軍)
金 相福
김 상복
生誕 1923年11月9日
大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮平安南道安州郡
死没 (1979-06-16) 1979年6月16日(55歳没)
大韓民国の旗 韓国ソウル特別市鐘路区明倫洞
所属組織  満洲国軍
大韓民国陸軍
軍歴 1944-1945(満洲国軍)
1946-1968(韓国陸軍)
最終階級 少尉(満洲国軍)
中将(韓国陸軍)
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金 相福(キム・サンボク、김상복1923年11月9日 - 1979年6月16日)は大韓民国の軍人。最終階級は陸軍中将。第3共和国体制で第17代参謀次長朝鮮語版、26代内務部次官、2代大統領政務首席秘書官朝鮮語版を務めた。カトリック教徒で洗礼名はヨセフ[1]

1923年11月9日生[2]。平安南道安州出身。1944年に奉天医科大学(現・中国医科大学)卒業後、満洲国軍司薬少尉として終戦を迎える[3] 。帰国後、1946年3月23日付で軍事英語学校第1期卒業、任参尉(軍番10076番)。警備隊第1連隊医務部(部長・朴東均正尉)補佐官として勤務を開始する[4]

その後転科し、朝鮮戦争勃発時は陸軍本部調達監。戦争中、瑞和里戦闘[5][6]、854高地戦闘[7]で武勲を挙げたとされる[注釈 1]。1952年10月25日時点で第8師団副師団長[12][注釈 2]。その後1952年中に第2砲兵団長[3][注釈 3]を経て、砲兵戦力の強化人員として「16人の砲兵将星」の一人に選抜され[注釈 4]、光州砲兵学校で3か月の基礎訓練を受けたのち米国に留学[14][15]、帰国後は第11師団砲兵団長、第1軍団砲兵司令官朝鮮語版歴任。

停戦後は第20師団長第3師団長を歴任。国防部管理局長であった際、5・16軍事クーデターで軍を追われ、石油公社社長に就任したが、1か月で呼び戻されて米参謀大学に留学、1963年に第2訓練所所長第1軍団長第2軍団長を経て参謀次長に就任[7]。しかし数週間足らずで内務部次官、さらに大統領政務首席秘書官朝鮮語版に電撃抜擢される。青瓦台襲撃未遂事件を受け、郷土防衛・対スパイ作戦に長けた人材と見なされた事が背景とされる[3]

1971年より韓国電力公社社長、全経連理事、新東亜火災保険(現・ハンファ損害保険朝鮮語版 )会長を務めた。

1979年6月16日、ソウル特別市鐘路区明倫洞の自宅付近で朝の散歩中、心臓発作により死去した[16]

年譜

  • 1946年:軍事英語学校第1期卒業、任少尉。
  • 1950年5月1日:陸軍本部調達監
  • 1951年12月:第8師団附?
  • 1952年
    • 第2砲兵団長
    • 10月:光州砲兵学校入学
  • 1953年
    • 2月19日:第11師団砲兵団長[17]
    • 5月11日:第1軍団砲兵司令官(~1953年9月25日)[18]
  • 1954年
    • 3月頃:第2軍団参謀長[19]
    • 10月1日:陸軍本部人事局長(~1955年7月15日)[20]
  • 1955年:第20師団長
  • 1956年:国防大学院入学(~1957年)
  • 1957年8月:第3師団長
  • 1959年6月2日:軍事発展局長
  • 時期不明:国防部管理局長(~1961)
  • 1961年
    • 5月[21]:失職、大韓石油公社社長
    • 6月[21]:復帰、少将
  • 1963年
  • 1964年8月[21]第1軍団長
  • 1965年2月26日:第2軍団長
  • 1966年7月18日:国防部管理次官補[23]
  • 1968年
    • 2月15日:参謀次長
    • 2月26日:予備役編入、内務部次官
  • 1969年4月12日:大統領府政務首席秘書官(~1971年7月9日)
  • 1971年7月22日:韓国電力社長
  • 1973年:新東亜火災保険会長

勲章

  • 金星花郎武功勲章(勲記番号11号) - 1950年12月30日[24]
  • 金星乙支武功勲章(勲記番号第896号) - 1953年4月10日[25]
  • 銀星乙支武功勲章(勲記番号第1390号) - 1954年5月25日[26]
  • 防衛褒章(勲記番号第2893号) - 1956年10月29日[27]

注釈

脚注

参考文献

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