釜鳴屋平七
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安政年間(1855年-1860年)のころ、熱海村ではまぐろ網の権利を巡って村役人・網元と網子の間で対立が生じ、漁場騒動に発展していた[1][2][3]。
網元の1人である平右衛門の長男・釜鳴屋平七は、網元たちの強引なやり口に義憤を感じ、網子の側に立って事態を収拾しようとするが叶わず、1859年(安政6年)11月に漁民200人以上と共に、蓑笠に身を包み、筵旗(むしろばた)を立てながら韮山代官所に押しかけ、代官・江川太郎左衛門(当時は第37代の江川英敏)に訴状を差し出して直訴した[1][2][3]。
平七は一揆(強訴・門訴)の首謀者として捕えられ、約4年投獄された後、一人島流しの刑を受け、1863年(文久3年)10月に江戸から八丈島送りとなったが、途中の大島で11月4日に35歳で死亡した[1][2][3]。
残された漁民たちは平七の遺志を継ぎ、長い戦いの後に勝訴を勝ち取った[2]。