鈴木よね
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1852年(嘉永5年)、姫路船津の米田町の塗師である丹波屋西田仲右衛門の3女として生まれる[1][4]。同業の福田惣平の次男に嫁ぐが、間もなく離婚し[1]、1877年(明治10年)頃に、姫路銀行の頭取岡玖平の仲介で鈴木商店店主の鈴木岩治郎と結婚[5][注 1]。
1894年(明治27年)6月に夫の岩治郎が死去した時点で、年商約500万円に達していた鈴木商店について、廃業して遺産9万円で遺児の養育をする旨の親族からの提案を退けて、夫の遺業を継承することを決意して自ら女店主となり、金子直吉と柳田富士松の2人の番頭に経営を委任することで再出発した[1][6]。
鈴木商店の経営を番頭に委ねる一方で、鈴木商店が大商社になっても毎日出勤し、店で使う雑巾を縫っており、進んで社員の結婚を世話して式場や新居を手配し、須磨の邸宅で野菜や花を栽培して度々社員に配っていた[7]。また、臨済宗祥龍寺の再興に尽力したほか、神戸女子商業(神戸市立神港高等学校を経て現・神戸市立神港橘高等学校)の設立を支援するなど地元神戸に貢献した[1]。
1926年(昭和元年)、鈴木商店がフランスのレール・リキッド社に特許料を払い、クロード式窒素工業を軌道に乗せた功績が評価され、よねにフランス政府からレジオン・ド・ヌール勲章が贈られた[2]。
鈴木商店破綻後に須磨の大邸宅から移り住んだ塩屋で短歌を詠み、草花を育て寺院を巡る等の穏やかな晩年を送り、1938年(昭和13年)5月に死去した[8]。

