鈴木宗言
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柴野宗八の弟、中村是公の兄として安芸国[2]佐伯郡五日市村(五日市町を経て現広島県広島市佐伯区)[3]に生まれ、1873年(明治6年)9月、鈴木正言の養子となったのち分家する[1]。柴野家の墓は現在でも広島県佐伯区五日市の光禅寺にある。1888年(明治21年)7月、帝国大学法科大学法律学科を卒業し[4]、判事補となり1890年(明治23年)判事に進む[1]。以来、横浜地方裁判所判事、同部長、東京控訴院判事、同部長、名古屋地方裁判所長、台湾総督府法院判官、覆審法院部長、同法院長などを歴任し、1907年(明治40年)8月、大審院検事に任じた[1]。退官後、旭薬品工業を創立した[2]。墓所は雑司ヶ谷霊園の1-8-9にあったが、現在は撤去されている。
栄典
著作
- 述『商法総則』専修学校、1895年。
- 述『破産法』東京専門学校、1899年。
- 述『商法総則』日本法律学校、1901年。
- 『台湾律令論 : 内地及台湾間に於ける法律律令の効力に就て』台湾日日新報社、1905年。