鈴木藤賢
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経歴
下野国烏山(現 栃木県那須烏山市)に鈴木理左衛門の次男として生まれた。兄の鈴木藤興(鈴木柔次郎)が関口流柔術の長岡英興(長岡八郎兵衛)の門人であったので江戸に上り、英興の門人となって関口流柔術を学ぶ。柔術については同じく門人であった兄や坪川圓蔵からも指導を受ける。また直心影流第8代・長沼国郷より直心影流剣術を学ぶ。元々は幕臣であったが、竹姫が島津氏に輿入れする際に従い、薩摩藩士となった。[1]
島津重豪が藩主の代に江戸定府となって守殿の役人となり、安永年間に供目附になり、のちに島津斉宣の御抱守となる。
『三州御治世要覧』の「当時御役人」(1778年(安永7年)10月2日のもの)に「御抱守 小納戸役格 鈴木弥藤次」の名がある。1773年(安永2年)に造士館とともに稽古所(のちに演武館)が完成すると剣術師範の一人となる。後に鹿児島に移住する。
薩摩藩では、真影流(直心影流)剣術は代々鈴木氏が継承して藩内に大いに広まり、鈴木家の道場は「鈴木殿の稽古」(すずっどんのけこ)と呼ばれ畏敬され、西南戦争で道場が焼失するまで続く。
1784年(天明4年)7月23日、死去。法号は秋光院松巌良柏居士。墓は松原山南林寺の源舜庵東南の新墓地にあった。墓石は五輪石であったという。