長冰

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長 冰(ちょう ひょう、弘化3年(1846年) – 明治16年(1883年11月26日)は、幕末から明治期にかけての勤皇の志士、官僚漢詩人画家。漢学者長三洲の弟。明治初期の学制起草に関与し、のち陸軍省御用掛を務めた人物である[1]。諱は。通称は綱吉四郎・子金、号は士金・斉などを用いた[2]。画家としては長古雪として知られる。

弘化3年(1846年)に長梅外の子として生まれる[2]。安政3年(1856年)1月、兄・長三洲の紹介により、11歳で咸宜園に入学した[2]

慶應3年(1867年)には忠勇隊に属し、幕末動乱期の活動にも関与した[2]

明治維新後、兄・三洲とともに新政府の教育制度整備に深く関わり、明治5年(1872年)には学制起草委員の一人として『学制一覧』の編集を担当した[3]。これは、学制の序文を踏まえ、制度運用上必要となる要項を整理・列挙したものであり、実務的な教育行政文書として重要な役割を果たした。

また、明治4年(1871年)7月には、学制起草委員として交付された学制各条に対し、修正案および意見を書き加えた文書を残しており、学制制定過程の具体像を知ることのできる史料とされる[4]。明治8年(1875年)6月18日には、正院権大主記に任ぜられる[1]

その後、長冰は陸軍省に転じ、陸軍省御用掛を務めた。明治13年(1880年)2月10日には、陸軍省御用掛(準奏任)として総務局報告課の課僚を免ぜられ、欠員補充のため総務局庶務課課僚に転じた[5]

明治14年(1881年)8月6日には、従来の職務に加えて陸軍卿官房御用掛を兼務するよう命じられた[5]。しかし、明治15年(1882年)10月24日、本人の願い出により陸軍省御用掛を免ぜられた[5]

明治16年(1883年)11月26日、病により死去[1]。墓所は青山霊園にある[5]

脚注

外部リンク

参考文献

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