長岡空襲
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長岡空襲(ながおかくうしゅう)は、第二次世界大戦(大東亜戦争)末期の1945年8月1日の日本時間午後10時30分から翌8月2日の未明午前0時10分の間に、アメリカ軍により行われた空襲。新潟県長岡市の中心部市街地を標的に焼夷弾が大量に投下された。これにより中心部市街地の約8割が焼失し、長岡市長だった鶴田義隆を含む1480人余りの市民が死亡した。罹災戸数は11986戸にも及ぶ。

これを慰霊して平潟公園には長岡市戦災殉難者慰霊塔が[2]、昌福寺には戦災殉難者之墓が建立された。また、長岡空襲に関する施設として長岡戦災資料館が開館している。
経過
※日時はいずれも日本時間
航空団の動き
- 1945年8月1日
- 15:03-17:40 - テニアン島離陸
- 18:18-20:58 - 硫黄島上空通過
- 21:16-22:37 - 日本本土上空到達
- 22:35-23:58 - 長岡市上空
- 23:06-翌00:28 - 日本本土離脱
- 1945年8月2日
- 05:33-07:42 - テニアン島着陸
現地の動き
- 1945年8月1日
- 21:06 - 長岡市に警戒警報発令
- 22:26 - 警戒警報が空襲警報に変わる
- 22:30 - 焼夷弾爆撃始まる
- 1945年8月2日
- 00:10 - 空襲終了
- 00:35 - 空襲警報解除
- 02:17 - 警戒警報解除
使用された焼夷弾
その他

1945年(昭和20年)7月27日夜から翌28日朝にかけてアメリカ軍が投下した空襲を予告する伝単には、長岡市を含む11都市が記載されていた。
アメリカ軍は長岡空襲のあった1945年8月1日にも日本全国に伝単を投下した。この伝単に書かれている富山市(富山大空襲)、八王子市(八王子空襲)、水戸市(水戸空襲)の市街地は、予告どおりに空襲された。しかし、伝単には「長岡」の文字はなかった。これについては、伝単に「高岡」と書かれていたにもかかわらず、富山県高岡市の空襲被害が小さいことから、アメリカ軍が「長岡」と書くべきところを「高岡」と誤記したのではないかと考えられている[8]。
長岡駅近くの人口密集地が対象となり、市街地の8割が焼き尽くされた。町の中心部にあった平潟神社の防空壕に多くの人が押し寄せたが、ここで約300人と一か所ではもっとも多くの死者が出た。なお、高岡市には個別に空襲作戦の計画書があったことは分かっているものの、大規模空襲はなく、空襲被害は死傷者40人以上、全損家屋20戸程度と、富山市や長岡市に比べて被害が小さい。
長岡市内には越後最大の瞽女の組合である『長岡組』の組織基盤があったが、大戦中に転廃業が急速に進み、長岡空襲によって瞽女屋が焼失して、瞽女1名が焼死したことで衰退がさらに加速したとされる[9]。







