長谷川零余子

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晩年の長谷川零余子。

長谷川 零余子(はせがわ れいよし、1886年明治19年〉8月20日[1][2] - 1928年昭和3年〉7月27日[3][4])は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本俳人。本名:長谷川 諧三。旧姓:富田。別号に翠邨。妻は俳人の長谷川かな女小説家三田完は孫。

群馬県緑野郡鬼石町(現・藤岡市)出身[5][1][6][2]。父・富田嘉十郎は伊勢崎警察署境派出所の巡査であった[1][2]1888年明治21年)嘉十郎は大垣警察署に赴任することとなり、妻・うめと諧三・つるの2人の子どもとともに大垣に移り住んだ[7][8]1892年(明治25年)父の嫡出として入籍される[1][6][2]

零余子は1897年(明治30年)境小学校を卒業後、剛志村下武士の毛陽学校に入学し、1901年(明治34年)に卒業した[7][6][8]。毛陽学校在学中から『中学文壇』『中学世界』『新声』などに和歌・小説・新体詩などを投稿していた[7][8]

その後上京し、薬種問屋の小僧、秀英舎植字工を経て、神田錦町の書店・大学館の台帳補充係などとして勤務する[9][6][10]1903年(明治36年)から『日本新聞俳壇』『新声俳壇』などに俳句の投句を行うようになり、その選者であった河東碧梧桐の知遇を得る[9][10]1906年(明治39年)にはホトトギス例会に参加するようになる[9][10]

1909年(明治42年)長谷川かな女と結婚し、長谷川姓となった[11][6][12]1911年(明治44年)に明治薬学専門学校(現・明治薬科大学)を卒業して東京帝国大学薬学専科に入学し、翌1912年(明治45年)に卒業[11][6][12]。品川の薬品研究所に勤務することとなる[11][6][12]

1911年(明治44年)より『ホトトギス』発行所へ出入りするようになる[11][12]高浜虚子のすすめにより『ホトトギス』の編集に携わることとなった[11][6][12]1914年大正3年)からは『ホトトギス』「地方俳句会」の選者を務めた[11][6]。1914年(大正3年)「東京日日新聞」(現「毎日新聞」)俳壇の選者[6]。東京帝国大学の模範薬局に薬剤師として勤めていた1916年(大正5年)には「帝大俳句会」を組織した[11][6]

1921年(大正10年)『枯野』を創刊し主宰する[13][14]。さらに「立体俳句論」を提唱[15][6][16]幾何学的な俳風で、知識人層の支持を得た。

1928年昭和3年)、山陰地方への旅行から帰った後に発病し、腸チフスという診断を受けた[3][4]。同年7月27日に東京府東京市淀橋区柏木(現・東京都新宿区)の自宅において42歳で死去[5]。墓所は杉並区福相寺[3][6][4]

主な著書

  • 句集「雑草」 枯野社 1924
  • 句集「零余子句集第二」 水明発行所 1932
  • 「俳句とその作り方」 春水社 1919
  • 「新らしき俳句の作り方」 春陽堂 1926
  • 「近代俳句史論」日本評論社 1921
  • 「袖珍俳句歳時記」(四分冊) 春水社 1918-1922 (編著)
  • 「新註俳人の手紙」 春水社 1918 (編著)
  • 「大正最新一万句選」 春水社 1919 (編著)
  • 「校注解釈蕪村俳句全集」 日本評論社 1922 (編著)
  • 「自然へ避難して」 枯野社 1923 (編著)
  • 「季題別年代別芭蕉俳句全集」 新詩壇社 1925 (編著)
  • 「枯野俳句選集」 枯野社 1926 (編著)

脚注

参考文献

関連文献

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