長郷泰輔
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陸奥国会津郡(現・福島県会津若松市)に生まれる[1][5]。父は会津藩士の長郷佐平で、その三男だった[2]。戊辰戦争に従軍後、敗戦により函館に移り、そこでイギリス領事の知遇を得る[2]。
明治4年2月(1871年3月 - 4月)に上京[2]。上京翌年の1872年(明治5年)には、長郷(当時は古田姓を名乗る)は、ロシア正教会大主教・ニコライ・カサートキンに従者として仕え、正教を受洗して「イリヤ」の洗礼名を授かっていた[2]。1882年(明治15年)には教会の公会に議員として出席した記録が残っている[2]。この間、ニコライの紹介で、横浜のフランス人建築技師・ジュール・レスカスに学んだ[1]。また、オーストリア出身の建築家・スメドレーにも建築を学び、スメドレーが設計したロシア公使館の工事監督を務めている(1879年)[6]。
1884年(明治17年)3月、塩飽諸島出身の大工・岡本鶴蔵とともに、[要出典]東京市神田区駿河台でニコライ堂の建設に着工した[7]。施工は清水組が担当した[要出典]。7年の歳月をかけ1891年に完成した。しかし、この工事をめぐってニコライは長郷との間で主に報酬をめぐって険悪な関係にあったことが、ニコライの残した日記に記されている[6]。この間の1886年(明治19年)1月に、長郷は「長郷組建築会社」を設立した[6]。1888年(明治21年)8月には大日本建築会社を設立する[8]。大日本建築会社が担当した建設工事はニコライ堂のほか、帝国議会第二次仮議事堂や北海道セメント(太平洋セメントの前身企業の一つ)が挙げられる[9]。
大日本建築会社は遅くとも1897年(明治30年)頃には閉業し、その後は「長郷組」の名前で活動したが、1906年(明治39年)頃にはそれも終了する[9]。長郷が死去した際の追悼文には、日清戦争で多くの利益を得て鉱山に投資したが失敗して資産を失い、様々な事業に手を出したと記載されている[9]。1903年(明治36年)の『日本紳士録』では肩書きは「下駄表製造業」となっていた[9]。最後は1894年に設立した生命保険会社の代表社員に就任(1905年)したが、1910年(明治43年)8月に会社を除名された[2][9]。
脚注
- 1 2 3 4 5 6 7 「長郷泰輔」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』。https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E9%83%B7%E6%B3%B0%E8%BC%94。コトバンクより2023年1月6日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 平山育男 2020, p. 2014.
- ↑ 会津若松市歴史資料センター「まなべこ」 [@aizumanabeko] (27 November 2021). “「#まなべこ」展示品ピックアップ3おまけ2 お待たせしました 人物顕彰後半3人をちょこっと紹介します”. X(旧Twitter)より2023年1月6日閲覧.
- ↑ 山川令子. “ニコライ堂 日本大百科全書(ニッポニカ)サンプルページ”. ジャパンナレッジ. 2023年1月6日閲覧。
- ↑ 『福島県史 第22巻 (各論編 8 人物)』340頁。
- 1 2 3 平山育男 2020, p. 2015.
- ↑ 平山育男 2020, pp. 2014–2015.
- ↑ 平山育男 2020, p. 2016.
- 1 2 3 4 5 平山育男 2020, p. 2017.
- ↑ 牧野登『紙碑・東京の中の會津』歴史調査研究所、1980年12月15日、156-159頁。
参考文献
- 平山育男「大日本建築会社の沿革と長郷泰輔について」(PDF)『日本建築学会計画系論文集』第85巻第775号、日本建築学会、2020年9月、2013-2019頁。
- 『福島県史 第22巻 (各論編 8 人物)』福島県、1972年。
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