開産社
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設立の旨趣
勧業社(後の開産社)設立の目的は、殖産興業をもって貧民を富ますとともに、財本を蓄積し、助けが必要な貧民にこれを貸し出すことが出来る会社の設立にあった。
以下に明治6年の「勧業社条例」を掲げる[3]。 なお下線部分は、「勧業社条例」にあって「開産社条例」に無い部分である。
- 「勧業社条例」第1条「発行旨趣」
- 『抑(そもそも)予備なくして凶荒に遇ひ、餒(う)へて溝壑(こうがく=どぶ)に転し、寒へて街衢(がいく=ちまた)に倒る、愁苦(しゅうく=くるしみ)焉(これ)より大いなるはなし。此時に膺(あた)り偶(たまたま)糶発(ちょうはつ=穀物を出す)して之を賑はす(貧しいものに金品を与えて救いめぐむ)者あり。其の志素より嘉賞(かしょう=ほめたたえる)するに足ると難も、目下の凍餒(とうたい=寒さと飢え)を拯(すく)ふに過ぎす。吾県令閣下勧業(開産)の方法を設け、常に此等の貧民を富まし、卓然自主の権を有せしめんと欲し玉ふと事茲に年あり。故二千五百三十三年十一月十六日(明治6年)県庁問題を下して之を議せしめしに、到底会社を置きて財本を貯蓄し、貧民の求需を待って之を貸与し、欲するところを為さしめて其のその成功を責むるに若くなきの旨に同意せり。社中権令閣下民を愛するの至渥(しあつ=うるおいにいたる)と、議者の貧民を外視せすして此会社を創立し、管内の幸福を謀らんとするの厚意に基き、以て会社設立す。名づけて之を勧業社(開産社)と云う。』
— 有賀義人著 「信州の啓蒙家 市川量造とその周辺」「勧業社の発足」(170P-171P)より抜粋
明治8年(1875年)1月23日に「勧業社条例」(「開産社条例」)に続き「開産社規則」が設けられる[4]。
- 「開産社規則」冒頭
- 第一、業を勧め産を開く事。
- 第二、義務を尽すの処にして私利を射るの場にあらざる事。
- 第三、県庁保護の旨趣を踐行すべき事
元資
融資の使用制限
「勧業社条例」(後に「開産社条例」)には受けた融資は、次のような事業を行うことに使用しなければならないことになっていた[3]。
- 1、 荒蕪の地を拓き桑、茶、楮、莨、藍、其他果実等地味に応之を栽培すべき事。
- 2、 養蚕牧牛を始め、豚、鶏、家鴨を盛大に蓄ふ事
- 3、 新溜池を築き旱損の患ならしめ、且畑田成を目論見可き事
- 4、 山繭を養う事
- 5、 石炭を鑿(さく)り蒸気機械を製し、百工技芸を起す事
- 6、 薩摩芋、馬鈴薯等を栽付る事
- 7、 利器を造り善良製糸をなす事
北原稲雄と松本新聞との対立
開産社は当初30名の大区長が交替で交番社長を務めたが、その後交番社長に加え、専任定詰社長2名が置かれるようになった。明治9年(1876年)8月22日筑摩県の信州側が長野県に合併され後、翌10年(1877年)4月北原稲雄が専任社長に就任する。北原稲雄は明治9年の筑摩県廃止まで官吏を務め、明治8年時は十等出仕であった。明治9年12年5月、北原稲雄社長は困窮士族救済のための特別措置に関する「奉願」を県へ提出する。明治10年8月以降、『松本新聞』(民権派新聞)の社説において編緯人(主筆)松沢求策が北原社長の士族優遇と専断運営を攻撃する[2][6]。明治12年11月、県庁は開産社に対して社則改正の社員会議召集を要求。翌13年(1880年)2月、社則改正の協議会が県官を迎えて開催されるが、県庁の実質的な経営介入に対し北原は反発して途中で退席する。そして同年11月末には辞職し帰郷した。
新社長の選任
北原稲雄辞任後、「改正法案」起草委員として樋口与平・上篠四郎五郎ら5名が選出され、松沢求策も参加。14年に入り、「改正法案」に基づき長野県の南部7郡(旧筑摩県側)で改正委員51名を選出する。その後規則改正会議が何度か開催されるが、欠席者が多く議事がまとまらなかったようである。同年9月にようやく規則改正案を決議するに至る[7]。明治14年11月、南部7郡から選出された議員により社長選挙が実施され、上伊那郡小野村の在野の倉澤清也(倉澤義随、島崎藤村作「夜明け前」では、倉澤義髄となっている)が当選する[2]。なお上記起草委員の樋口与平は北原稲雄の弟であり、倉澤清也の社長就任に際し、南部7郡にそれぞれ支社がおかれ、その支社長を副社長と称するが、樋口はその1人となり、社長の清也を補佐する[6]。
