閔瑗植
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閔 瑗植(ミン・ウォンシク、민원식、1898年6月[1] - ?)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、起業家でもあった、大韓民国の言論人で、本貫は驪興(驪興閔氏)。
閔泳煥の6番目の叔父にあたる閔ヨンチョル(민영철)の3男として生まれた[2]。
日本統治時代に入る前、数え年9歳の時に家族で朝鮮を離れ、ロシア帝国の支配下にあった威海衛租借地を経て上海へ移り[3]、その後、上海から帰国するフランス人司祭に従って[4]フランスに留学して[5]、1918年にフランスで尋常中学校高等科を卒業し[1]、トゥールーズ大学に入学したとされ、朝鮮人として初めてフランスの大学に入学した人物とされる[4]。
1919年に金奎植がパリ講和会議への参加を試みて渡仏し、大韓民国臨時政府外務総長・欧米外交委員会代表として活動した際には、通訳として補佐にあたったとされる[4]。
その後は、従兄の閔熙植(민희식、後の大韓民国交通部初代長官)[4]に従ってアメリカ合衆国に渡り[5]。1921年にコロラド州で高等学校を卒業したとされるが[1]、これについては「커타랜드」(不詳)で金鉱について学んだとする説[3]もあり、(この時点では渡米しておらず)同年にトゥールーズ大学を卒業したとする説もある[4]。
1922年にいったん朝鮮に戻って[3]京城府西大門町のデビソン商会に勤務した後、再度渡米して閔熙植が在籍していたネバダ大学に入学し、1928年に卒業し、シカゴ大学大学院へ進んだが、程なくして退学した[1][4]。
1929年6月に、朝鮮に戻り、7月に朝鮮総督府鉄道局雇員庶務課勤務となり、11月には鉄道従事員養成所教諭となったが、この職は1932年より前に離れている[1]。
その後、東亜交通公社の京城支社顧問を務め[5]、大韓民国臨時政府である金奎植の補佐もした。西洋画家である尹時善と結婚した。
1945年9月6日には、白南鎭(백남진)、南廷麟(남정인)などとともに英字新聞『Seoul Times(ソウル・タイムズ)』(後の『Seoul Daily News(ソウル・デイリー・ニュース)』)を創刊した[6]。11月30日には、連合通信(합동통신)を設立してAP通信と契約し、同社は12月20日に国際通信(국제통신)と合併して合同通信となった[7]。
1946年12月には、東亜交通公社職員が作った朝鮮旅行社(조선여행사)の社長に推された[5]。 1950年の朝鮮戦争中に、妻の尹時善と共にソウルにいたところを拉致された。