閔肯鎬
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京城出身。父は閔致鳳、母は原州元氏。1898年、30代にして大韓帝国軍人となり、鎮衛隊原州歩兵第5大隊の高城分遣隊附や春川分遣隊附勤務。1900年正校、翌1901年には特務正校(特務曹長、准尉に相当)となったのち、歩兵第5大隊本隊附[1]。1907年、高宗が退位し、大韓帝国軍の各部隊に次々と解散命令が下される。かくして8月2日に第5大隊にも解散命令が下されたが、3日後の8月5日、大隊長の洪裕馨参領が出向している間に大隊長代理の金徳済正尉、孫在奎参尉、韓甲復正校らと武装蜂起し、警察署などを襲撃する。江原道地域で募兵して義兵を起こし、関東一帯で多数の日本兵を射殺した。
李殷瓚が楊州市で義兵を起こした時に加わり、関東軍倡義大将になって100回の戦功を立てた。1908年2月28日、雉岳山で日本兵の不意の襲撃を受けて逮捕される。翌日2月29日、部下の義兵らが救出作戦を起こし、奪還されることを恐れた日本軍により射殺された。
1962年に建国功労勳章単章が授与された。